、自分の思ふやうには行きませんでした。國語傳習所といふところで、落合直文や、小中村義象や、關根正直やの講義を聞いたり、右の文學會でいささか哲學じみた講義を聞いて、私の心持はその方向に傾き、今の東洋大學の前身である哲學館に入學しました。しかし在學僅か一ヶ年餘りにして、私は殘念ながら郷里に歸らねばならなくなりました。それは再び寄食した福田家の生活が非常な困窮状態に陷つたためでありました。
 福田氏は栃木縣の可なりの資産家で、その家の長男である友作氏が、ささやかな家庭を維持する經費ぐらゐは、問題にもならぬほど些細なことであつたに相違ありません。ところが兩親の氣に入りの嫁を出して、景山英子といふ變り種と同棲するに至つた友作氏の行動は、當時としてはまさに兩親への叛逆でありました。殊に家付の娘であつた母親が許しませんでした。勿論、自由行動を採つた友作氏は自主生活を營むべきは當然でありました。ところが金持の息子さんの悲しさで、貧乏骨ずゐに達しながらも、最後には生家の方からどうにかしてくれるものといふ依頼心が無意識に潜んでゐたのでありませう。ただ不平不滿でその日その日を送るといふ有樣でした。明治二十七年(一八九四年)の大晦日にはお正月の餅を近所の餅屋に注文したが、その餅代が調達できないで、折角持つて來られた餅をまた持ち歸られました。ところが、その大晦日の夜、わたしの父が、わたしに新調の手織木綿の羽織と小倉のハカマとを持つて來てくれました。わたしは折を見て父に福田家の窮状を話すと、父はそつと懷から五十圓とり出して、御用にたてばよいが、と申しました。福田氏夫妻のよろこびはもちろん言語に絶するほどでした。そして父が歸ると、すぐにお正月の酒と餅とが買ひこまれました。
 この五十圓の金は米一升十錢の當時としては可なりの助力になりながら、しかし燒石に水であつたことは當然でありました。わたしの新調の羽織と袴も、永らくは手許に留まらず、質屋の繩に縛られて、お倉の奧に幽囚せられました。夏になつても蚊帳がなく、知人の紹介で、損料で二はりの蚊帳を借り、家への途中、一はりを質に入れてお米を買つて歸つたこともあります。牛込天神町の福田家から下谷黒門町の知人のところに行き、借り受けをし、神田表神保町の質屋に廻つて歸るのですから、大へんです。電車もバスも無し、人力車に乘るのも惜し、大ていは徒歩のお使ひです。かう
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