木下尚江が發行するところの『野人語』に、わたしは花井邸訪問の一齣を次のやうに書いてゐます。
「この堂々たる訪客(堺利彦、野依秀市兩君)の中に、十年着ふるしたるハゲがすりの、この夏一度も洗濯せざる單衣をまとへる予の、いかにみすぼらしく見えしよ。加ふるに予は昨年入獄の際より呼吸器に微恙を得て、やつれし小躯を湘東の一漁村に養ふの身の上である。二十年舊知の花井博士の眼にはこの光景が如何に映じたであらうか。
 堺、野依の兩君は所用を濟ませて辭し去つた。暫くして予もまた所用をすませて當に座を立たうとした。その時花井氏は聲を懸けて
『ちよつと……』
 といふ。何時になく沈んだ聲である。
『失敬だけど、はなはだ失敬だけれど、着物を一枚あげたいが、着てくれますか……』
 予は子路のやうな豪傑ではないが、さりとて衣服の粗末なるを恥ぢらふほどに世俗的でもない。たゞこの頃中から種々なる無理な無心を申し出でてたびたび迷惑をかけた揚句に、この優しい言葉に接して、俄かに心臟の血がワクワクするのを覺えた。
『えゝ、ありがたう』
 と予が答へるのを聞いて、花井氏は、すたすたとドアを排して出ていつた。すぐに歸つて來た。新聞紙にくるんだ物を小脇にかゝへては入つて來た。
『失敬なやうだけれど、君と僕との間だから、惡るく思うて呉れたまふな』
『いえ、どう致しまして』
『僕がちよつと着たのだから、きたなくはない』
『結構です、どうも着物のことなど少しも關はんものですから……』
『關はないのはよろしいが、あんまり、ひどいや』
 花井氏は顏をしかめてかう言ふ。その澁い底力のある聲は少しくうるんでゐる樣子であつた。
『恐縮です』
 博士自らていねいに包みなほして、カタン糸にてゆはいて呉れたのを予はいただくやうに受取つた。予は拜領の包を抱へて椅子から立つた。花井氏はまた一語を送るのである。
『早く身體を丈夫にしてね……』
 予は花井邸の玄關をそこそこに出て、ほつと一息した。平生『敞衣褞袍、興衣狐狢立、而不恥者、其申也歟』など言うて、いささか誇りにしてゐた予も、人情の不意討を喰うて不覺の涙さへ禁じ得なんだ」
 當時の私の状態がいかに哀れなものに見えたかが想像せられます。わたしに飜譯の仕事を世話してくれたり、いろいろ助力をしてくれた同郷の先輩、佐藤虎次郎氏――この人のことは前にも書いた――は或る時わたしに勸告して
「もし
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