程度に……」
 こんな仕儀で、私はふなれな言葉で、ぼつりぼつりと、兎の糞の落ちるやうな話を續けた。

 私の故郷は日本最大の關東平野の一角で、武藏と上野との境を流れてゐる利根川べりの一船着場でありました。そして私の生家はその地方の漕運業を獨占してゐた問屋であり、村の名主でありました。徳川幕府の江戸城下から西北方に百キロメートルを隔てた土地で、利根川の流水に惠まれて、この地方と江戸との間の交通を一手に支配した特權階級でありました。
 ところが、私の生まれる十年以前に、日本には大革命が行はれました。徳川氏の封建制が倒れ、いはゆる明治維新が成立して、ヨーロッパ模倣の近代國家が組織せられました。この結果、この封建制の保護の下に存在した特權階級たる私の生家の威光も漸く衰へ始めました。私がもの心を覺える頃になると、家の中に何となく暗い陰がさして來たやうに、子供心に感じられたことを今も思ひ出します。
 村中の者がほとんど全部と言つてよいほど私の家で働く船乘りか又はそれに連なる職業を渡世にしてゐました。そして利根川の水が東に流れ、太陽が東から登る間は米びつに米は絶えない。宵越の金を使ふのは黴の生えた食物を食ふよりも馬鹿。かういふ哲學で村中の人が生きてゐたのです。ところが、私が八九歳になつた頃、即ち明治十七年頃、舊江戸の東京から利根川上流の高崎まで鐵道が敷かれました。これは地方の經濟生活に大革命を齎らさずには置きませんでした。殊に船着場であつた私の村は、全村失業状態となり、軒の傾かぬ家、雨のもらぬ家は、稀にしかないやうになりました。利根川河口の銚子町との間に河蒸汽を通はせることも試みられたが、もともと徳川幕府への御年貢米の運搬が特權の主要素であつたのにそれが喪はれて、自由競爭の世になつたので、何を試みても成功はしないのです。村の中にも眼先の利くものの叛逆が既に起りました。父は汽車ができると同時に半里ほど隔つた本庄驛の停車場の一番よい所に運送店を開きましたが、それも瞬く間に、多くの借金を殘して失敗して了ひました。永い間幕府の特權に保護されて來た舊家にとつて、維新以來の政治的、經濟的の荒浪は、餘りに高く餘りに烈しかつたのです。それに上品な父は、經驗の無い放蕩の長兄と分家の當主とに事業を任せて自身は舊い家に引込んでゐたのです。家道は益※[#「二の字点」、1−2−22]傾くばかりでありました
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