が武力的革命にまで急発展すると否とに係はらず、かうした気分は顕著である。
然るに「土民」思想には些かもそうした気分が現はれてゐない。歴史上に於ける「土民」の名称は叛逆者に与へられたものだ。殊にそれは外来権力者、または不在支配者に対する土着の被治被搾取民衆を指示する名称だ。「土民」とは野蛮、蒙昧、不従順な賤民をさへ意味する。温情主義によつて愛撫されない民衆だ。その上、土着の人間、土の主人公たる民衆だ。懐柔的教化に服さず、征服者に最後迄で反抗する民だ。日本の歴史に「土民起る」といふ文句が屡々見出されるが、その「土民」こそ土民思想の最も重要な気分を言ひ現はしてゐる。
土民は土の子だ。併しそれは必ずしも農民ではない。鍛冶屋も土民なら、大工も左官も土民だ。地球を耕し――単に農に非ず――天地の大芸術に参加する労働者はみな土民だ。土民とは土着の民衆といふことだ。鍬を持つ農民でも、政治的野心を持つたり、他人を利用して自己の利慾や虚栄心を満足するものは土民ではない。土民の最大の理想は所謂立身出世的成功ではなくて、自分と同胞との自由である。平等の自由である。
◇
第二に、農本思想は農民を主とするが故に他の民衆を考慮に入れる余地がない。「農本」といふ言葉其ものが、既に他の職業人を第二位に置くことを予想させる。そこで農本主義者は農民の如何なる社会組織を予想するかゞ問題になる。農本主義とは他の職業よりも農を重しとするものであらうが、それが果して可能であるか。崇神帝の「農は天下の大本なり」といふ勅は決して他の職業を蔑視したものではあるまい。なぜなら直ぐ次に「船は天下の利用なり」とあり、交通機関としての船の重大性を同様に認めてゐるからである。然るに今日の農本主義者はたゞ農民のみを重んじ、農民のみによつて社会改造を成就しようとする。それは農民の機械的の組織を予想させるものではないか。
土民思想に於ては、職業によつて軽重を樹てない。たゞ総ての職業が土着することを理想とする。自治は土着によつてのみ行はれる。然るに他の諸々の職業人と有機的に連帯しない農民のみの土着は不可能だ。その土着生活は必ず他の職業に依頼せねばならないので、再び動揺を起さねばなるまい。総ての職業が土着するには、金融相場師がなくなるを要する。総ての職業が土着すれば、そこに信用が確立し、投機が行はれなくなる。
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