農業がどうなるか――葡萄が出来るなら葡萄も作り、それから葡萄酒も作つて見たい。林檎が出来るなら林檎酒も作りたい。それから、鶏、豚、山羊、兎も飼つて見たい。出来るなら、もつと山奥へ這入つて人の捨てゝ行つた土地を耕してやり度いのである。しかし、それで生活も立てられまいから、文筆労働もやらなければなるまい。今日の資本主義のもとに事業をやらうと思へば、どうしても資本主義になるから、さう言ふことはやり度くない。自分の生活は出来るかぎり原始的な自給自足で労働をする。それは、一人ではいけないから、仲間があれば共にやり、それが私の社会運動になれば面白いと思ふのである。
そこで斯う言ふ……現代社会思想を検討すると、ジヤン・ジヤツク・ルーソー以来、今日に至る迄自然生活に帰れと言ふ感想と生活とが、非常な勢ひをもつて近代人を動かしつゝあることに気がつく。ルーソーは自然に帰れと教へたが、ルーソーの思想はフランス大革命を起させたが、それは起させただけで、その思想を実現しないでわきへそれた。そこでその後に生れた社会主義の鼻祖と言はれるシヤルル・フーリエは更に一歩を進んで、土に帰れと教へた。イギリスの社会主義の父と言はれる、ロバート・オーエンの実現しやうとしたところも、主農的共同生活であつた。
かうした思想の傾向はずん/\延びて来て、イギリスで言へばラスキンとか、ウイリヤム・モリス、それから先に言つたカーペンターなどは皆この傾向に属して、近代機械文明を呪つて自然に帰れ、土に帰れ、と教へたのである。トルストイの如きもそれである。ルクリユの如きもそれである。クロポトキンの如きもやはりその系統に属するのである。
かうした思想は今日真実を求むる人々の生活の上に深く喰ひ込むで来て、実際の生活として、若くは生活運動として、力強い発展を示して居る。
今日は無産政党の盛んの時だけれど、私は余りこれに興味を持たなくなつて、何だか隠遁生活じみてゐるやうだが、決して隠遁するつもりではないのである。寧ろ、これからほんとの私の積極的の生活になつて行くと信じて居る、バヴヱルの塔を望んで狂奔してゐたのでは、百年千年待たうとも、落ち着く先は見当らぬ。
底本:「石川三四郎著作集第三巻」青土社
1978(昭和53)年8月10日発行
初出:「読売新聞」
1927(昭和2)年3月21日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:田中敬三
校正:松永正敏
2006年11月17日作成
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