吾等の使命
石川三四郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)跫音《あしおと》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)声|札々《さつ/\》たり
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「財あれども商を行はず」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)札々《さつ/\》
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一
清い艶やかな蓮華草は、矢張り野の面に咲き蔽ふてこそ美しいのである。谷間に咲ける白百合の花は、塵埃の都市に移し植うべく、余りに勿体なくはないか。跫音《あしおと》稀なる山奥に春を歌ふ鶯の声を聞いて、誰か自然の歌の温かさを感じないで居られやう。然るに世の多くの人々が、此美しい野をも山をも棄てゝ、宛《さな》がら「飛んで火に入る夏の虫」の如く、喧騒、雑踏、我慾、争乱の都会に走り来たるのは何故であらうか。
二
支那太古の民、壤《つち》を撃ちながら歌つた「日出でゝ作り、日入つて息ひ、井を鑿《うがち》て飲み、田を耕して食ふ。帝力我に何かあらんや」と。「帝力我に何かあらんや」なぞと如何にも不忠の民の様に聞え、堯の聖代の事実としては受取れない様に思れるが、決して、さうでは無い。是は堯の如き聖者の下に於ては、余り善く世の中が治つて、其恵が行き渡つて居ることを記したものである。宛《あたか》も太陽の恵を吾々が忘れて居る如く、天子の威力が眼立たないのである。こうして農民が鼓腹撃壤して人生を享楽することが出来るならば、農村は誠に明るい楽しい処となり、哀れな忙《せ》はしい都会なぞには行きたいとも思はないであらう。夏の虫が火を眼がけて飛び込むのは、暗い夜のことである。我慾の猛火が漲つてゐる都会に、世の人々が引き付けられるのも、矢張り暗黒の時代に限つて居る。
自然は美しい。山下林間の静寂地に心の塵を洗ひ、水辺緑蔭の幽閑境に養神の快を貪るといふ様な事は、誰しも好ましく思ふ処である。然るに今日の農民は、美しい自然の中に生活しながら、其れを享楽することが出来ない。山紫水明の勝地は傷ましくも悉く都会のブルジヨア、金持達の蹂躙する処となつて、万人の共楽を許さない。資産ある者は、文明の利益をも、美しい自然をも、悉く独占して、その製造と耕作とに従事する労働者や農夫等は、却て其文明の為に、自然の為に、又資産家、地主の為に、徒らに労働の切売をして居る。之に於て、農夫も一箇の商人となつた。右手に鍬を持ち左手に算盤を弾く商人となつた。殊に其精神に於て全然商人と化して了つた。如何に能く地を耕やし、如何に善き収穫を得んか、といふことが問題ではなくて、唯だ如何に多くの利益(金銭)を得やうか、といふことのみが重大なのである。農夫の心は既に土地其ものから離れたのである。土地への愛着を喪つて、只管《ひたすら》金儲を夢見る農民が、夏虫の火中に飛び込む如く、黄金火の漲る都会を眼がけて走り寄るのは当然である。
三
素町人の商人と区別せられた昔の農民は、今日は既に存在の跡を絶つて了つた。「機梭《きひ》の声|札々《さつ/\》たり。牛驢走りて紛々たり。女は澗中の水を汲み、男は山上の薪を採る。県遠くして官事少く、山深くして人俗淳し、財あれども商を行はず[#「財あれども商を行はず」に傍点]、丁あれども軍に入らず、家々村業を守つて、頭白きまで門を出でず」(白楽天の「朱陳村」)といふ様な美しい生活は地を払つて無くなつた。こう考へて見ると、今日は最早や、農民問題も、農村問題も無いのである。天下悉く商民商村と化した今日、特に農民自治などを叫ぶのは宛も時代錯誤ではないか。
それは、その通り、時代錯誤に相違ない。今日の問題は、農民の自治といふことでは無くて、商を転じて真農と化するにある。然るに、同じく商と称するも、鍬鋤を顧みない純商人と、未だ鍬鋤を棄て得ない商人、即ち現在の農夫とは些か其境遇に差異がある。其心は兎に角として、其境遇が土着して居る吾等農夫は、尚ほ祖先の地を去り難く、一種の覊絆に繋がれて居る。吾等は生存競争、金力万能の風潮に溺るゝことを怖れつゝ、尚ほ吾等を生んだ土地を耕やして、美しい墳墓までも用意しやうと執着して居る。此執着心深き吾等をして、吾等の父母たる天地の恵みを充分に享楽せしめよ。他人の懐と他人の生産との間に介在して自己の利益をのみ貪る我利商人たることを避けて、吾等をして直ちに天地の創造に参与する農産業に没頭せしめよ。是が吾等農民の真の希願である。
四
然らば此希願は如何にして成就し得るか。其第一要件は即ち自治である。自治は万物自然の生活法則で、此法則は人間にも実現されねばならぬ筈である。鳥は飛び、魚は泳ぎ、地球は自転して昼夜を
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