があるばかりでその絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽としてその作の情調を味いたい。僕はいかにも日本の仏らしい藤原時代の仏像と外国趣味の許多に加わっている天平時代の仏像とを比較して、“LOCAL COLOUR”の意味から前者を取る事はしないのである。DAS LEBEN(生命)の量によって上下したいのである。緑色の太陽を画いた作家の PERSOENLICHKEIT に絶対の権威をもたしめたいと考えている。日本の自然を薄墨色の情調と見るのが、今日の人の定型であるらしい。すべて曇天の情調をもって律しようとしているようである。春草氏の「落葉」がその一面を代表している。黒田清輝氏の如きも、自らは、力めて日本化(?)しようと努力して居らるるらしい。そして、世人はその日本化の未だ醇ならざるをうらんで居る形である。地方色を最も重んずる人に柏亭君が居る。同君のこの趣味は、地方色を重んぜよという理論の側よりも、むしろ氏の性情《テムペラメント》の中に根ざして居る純日本趣味並びに古典的趣味の側から多く要
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