いうものか間もなく喧嘩《けんか》をして学校を辞めて仕舞った。その後に藤田文蔵先生が来て、僕らの木彫の方でもモデルを使って塑造をやることになり、初めてモデルを使うという期待は大へんなものであった。
例の宮崎幾太郎の阿母さんのモデル婆さん、あれは一番初めに自分でモデルになったので、自分がモデルの株を持っていたわけだが、婆さんも次第に忙しくなり、自分の仲間の娘やお上さん、そのうちには男のモデルまで連れてくるようになった。木彫科の使った男の最初のモデルというのは俥屋で随分と滑稽なこともあった。よく覚えているが、山田鬼斎先生の教室にそのモデルの俥屋が婆さんに連れられてやってきた。此時は塑造台を新調してその俥屋のモデルを迎えたのであるが、彼は裸体になっても下帯を取らないでがん張っている。鬼斎先生がみんな取ってしまえと談判を始めた。学生はじっとその様子を眺めている。俥屋は初めそんな約束ではなかったと言い、何んでもよいから裸体になってしまえ、それでは御開帳をするのですか、そうだ、と押問答の末とうとう裸にさせてしまった。こんなわけだからモデルになった者は優遇して逃がさぬようにしたのである。ところがその俥屋の体格は実に悪い。お尻が出っ張って、脚が曲って全く俥屋らしいおかしい恰好《かっこう》であったがそれでもその一人のモデルをいつまでも使っていた。これが男のモデルの一等最初の人である。やがて女のモデルもやってくるようになったが、大へんな騒ぎで初め頃は僕らもまともにモデルが見られなかった。片手で前をかくしているモデルが多かった。
木彫の方は小使が皆|石膏《せっこう》を扱うので、石膏屋さんとしては小沢という人がいたのを記憶する。石膏も初めは使用法を知らぬので沢山の無駄を出していた。そのうち宮島さんという人がいろいろと自分で工夫し、上手《うま》くなって専門の石膏屋になったが、僕らも段々少い石膏で上手く出来るようになった。流した石膏に青や赤の色を着けておいて、外型を毀《こわ》してゆく時に赤が出て来たからもう直ぐ肌だとか、青が出たから肌であるなどと、そんなことをやったりしたこともあった。
その頃である。岩村透先生がフランスから帰ってきて何もかも新式だというので旋風を巻き起し、その上頭も良かったのでまるで学校中を掻き廻すような有様であった。いろんなことをやり出した。美術学校を専門学校にするにはもっと勇敢にやらねばならぬという風に、思いきりやり出したのである。それは大へんな勢力であった。正木先生は困ったであろう。色々なことから正木先生と岩村先生がとうとう衝突してしまった。美術学校記念日の美術祭なども祟《たた》った。この美術祭には岩村先生が大いに力を入れて二三日間も続き、飾物も出来る運動会もやる仮装行列もやるという風で、僕らは裸体になって活人画をやった。こんな事から後に岩村先生は学校を辞めることになってしまった。幾度かこういうふうに学校の空気が変って最後にもっと合理的な境地が出来、それで平凡なものに治まった。
当時はあらゆる方面から見てまだまだ非常に幼稚なものであった。僕らはこうして五年間居たのであるが、結局何んにも分らない。いずれも中途半端なもので分らずに済んだ。卒業前の修学旅行に奈良へ初めて行ったのであるが、その二十歳の時奈良へ行って様々と見たことが初めて自分の身になったような気持がした。これまで動揺していたものが奈良に行って初めて大分納った。
僕が学校を出たのはまだ二十歳の時なので研究科に入って徴兵猶予となり、再び学校へ通い出したのである。当時白井雨山先生がフランスから帰った。雑誌ステュジオの中にロダンという名前があらわれており、僕はその写真をみていいようのない驚きを感じた。又丸善でモオクレエルの「ロダン伝」を見つけ、その本を実に精読したものだった。これをロジンだと言いロデンが本当だと言い或は気狂いだなどとも先生がいった。僕はまたどうしても文学的なものから抜け切れず、浅草の玉乗りの少女の情景を作ったりしていた。こうしてこの研究科を二年ばかりやったのであるが、考えて西洋画科へ再入学した。此の時には岡本一平、藤田嗣治、近藤浩一路、田中良などの連中と一緒であった。田中君とは藤島塾で木炭画の稽古を長い間やったことがある。
そうこうするうちに岩村透先生からフランスへ勉強に行ったらどうだ、と進められたが僕にはそんな金がない。その頃アメリカあたりに博覧会があって、向うには懇意な人々がいるから紹介状を二三本持って行けば何処かで使って呉れるだろうというような話であったが、とてもまだ僕自身にはそんな勇気はなかった。ところが親父の方がその話に乗気になり、齢《とし》を取ってからでは不安であるが、今の中なら大丈夫だ、と言い出した。初め岩村先生は二千円を拵えろといい、二千円あれば旅費と向うに行って一時就職する迄の費用はあると言う。そうなってみると親父の方が一生懸命で、何でもかんでもやろうと、とうとう僕もその時始めて背広服というものを作ったのである。
僕は英語は相当達者だった。学校時代から神田の正則英語学校に通っていたので、英語については自信があった。正則に通うと言っても当時のことゆえ今のように乗物はなく、歩いていれば時間が間に合わない。それで自転車を買って一日中学校を駆け廻って勉強した。僕の家ではもと音楽が禁じられていたので、僕は小学校の時代から唱歌もやらないで通した。それは僕の曾祖父《そうそふ》に当る人が富本の名人であったが、何か悪い人の為に毒薬を飲まされ、全身がふらふらになり、祖父はそのために酷《ひど》い苦しみをしたのである。従って僕の親父もそのため一生涯大変な苦労をした。そんなわけで僕の家では誰に限らず子供の時から音楽は禁じられてしまった。
僕の母なども長唄から笛などもやった人であるが、きつく禁じられていた。祖父はまた大津絵などをとても上手く唄っていたのを覚えている。僕はだからいまだに君ヶ代も満足には歌えない。小学校の試験の時には唱歌は歌えないので、その代り僕はオルガンを弾いた。美術学校時代にはヴァイオリンを神田小川町の高折周一先生についてさかんにやった。忙しい学校歴訪の間に、自転車の後にヴァイオリンを乗せて通っていた。
こうして僕はアメリカへは日露戦争のすんだ後一九〇六年の二月に出掛けた。ロンドンにいた時にはマンドリンをやった。ピアノはミス ファウラーについて一寸勉強したがすぐやめた。
そんなにやっていた楽器もある日ザウエルの音楽書を読んでその日限り止めてしまった。一つの音を出すにも並大抵のことではないという真剣な芸術論に触れ、自分のやっていたことがまるで冒涜《ぼうとく》のようにふり返られたのである。
大体以上が美術学校時代である。
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(追記、長沼守敬先生は今年七月十八日房州館山町で長逝せられた。享年八十六。)
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[#地付き](談話筆記)
底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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