に藤原期の仏画ある事を忘れてはならない。日本にも曾《かつ》て交響楽的色彩の綜合美《そうごうび》に成る芸術の専ら行われた時代のある事を銘記しなければならない。外国人がよく日本を色彩の国と称《よ》ぶ時それは浮世絵の色彩を意味する。版画のあの落ちついた好もしい色彩の美は結局板木とバレンとの工作によって自然に出る色彩の綜合的妙味であって、版画の隆盛期に於ける肉筆絵画が必ずしも同様の妙趣を持っていたのではない。試みに広重北斎あたりの肉筆の彩色画を見れば如何にその版画に於ける色彩との相違の甚だしいかを観る事が出来よう。私の意見では日本に於ける交響楽的色彩美の本質は藤原期にあり、鎌倉期以後はむしろ色彩の把握というよりも素描へ彩色を加えるという意味の方に傾いていると思える。
藤原期は、天平弘仁の彫刻隆盛の後をうけて絵画興隆の機運に恵まれた時代であり、一方には壁画をはじめとして大小の掛幅が作製され、又一方には宮廷生活の需要に応じた「源氏物語絵巻」のような絵巻物の類が創作せられた。いずれも色彩美のよろこびに溢《あふ》れたものであって、壁画掛幅のような建築との色彩調和に俟《ま》つものは当然の事としても、絵巻物のような単独鑑賞の絵画にしても「源氏物語絵巻」の如きは「つくり絵」と謂《い》われる胡粉《ごふん》ぬり重ねによる色彩の諧和《かいわ》豊麗を志している。もともと天平弘仁の彫刻そのものが既に色彩美を十全に発揮した造型であったのであるから、その後をうけた絵画が更に自由な規模による領域を発見してその色彩美をついに交響楽的綜合美にまで高めるに至ったのも自然である。
写真を掲げた一図は高野山に蔵せられる「聖衆来迎図《しょうじゅらいごうず》」のほんの一部分、中央|阿弥陀《あみだ》如来の向って右に跪坐《きざ》する観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》の像である。此全画は又「二十五菩薩来迎図」とも称せられ、恵心僧都の筆という伝説のある絹本の大幅三幅に収められた一つの構図である。もとよりその全体を目前にしなければ説明もしかねるのであるが、何分にも竪《たて》六尺九寸、幅一丈にも余る大幅であるので、写真に縮小しては鮮明を欠くのでその一部分を掲げて描法の一端を示す事としたのである。幸い此の全画の写真はよく画集などに出ているので就て見る便宜も多い。もと比叡山に蔵せられたものであるという事であるが、叡山横川の僧都源信の「往生要集」に基く往生極楽の信仰をまのあたりに画きあらわした宗教画として、まことに壮麗無比、法悦無上の美が此処にある。「当《まさ》に知るべし、是の時に仏は大光明を放ち、諸の聖衆と倶《とも》に来つて、引接し擁護したまふなり。惑障相隔てて見たてまつること能《あた》はずと雖《いへど》も、大悲の願疑ふべからず。決定して此の室に来入したまふなり。」「命終らんとする時に臨み、合掌|叉手《さす》して南無阿弥陀仏と称《とな》へしむ。仏の名を称ふるが故に、五十|億劫《おくこふ》の生死の罪を除き、化仏の後に従つて、宝池の中に生る。」こういう浄土教の雄大な幻想が、さながら色彩の交響楽となって藤原期の仏画の一々に遍満する。写真の観世音菩薩像にしても金銀五彩の調和そのものであり、且つ又その個々の色彩の質が持つ高度の美に至っては、如何に当時の画人の美意識の極度に洗煉《せんれん》されていたかがうかがわれる。殊に今日まで褪色《たいしょく》もしないでいる紺青|臙脂《えんじ》の美は比類がない。アニリン剤の青竹や洋紅に毒された世界近代の画人は此の前に愧死《きし》するに値する。東京在住の人は帝室博物館に所蔵せられて頻繁に展示せられる「白象普賢菩薩像」に接する機会が多い。此の同じ藤原期の仏画に接して日本に曾《かつ》てあった色彩美の如何なるものであったかを実際に観られるがいい。色彩に於ける美の日本的源泉[#「色彩に於ける美の日本的源泉」に傍点]は決して低い浮世絵などの中に存在せずして、遠く高い藤原期にあり、しかもそれが絶妙のものである事を世界にもあまねく知らしめたい。そうしてわれわれは此の源泉から深く汲んで堂々たる交響楽的色彩美を今後の日本美の有力な一要素たらしめたい。
能面「深井」
以上私は、美の日本的源泉を説いて来た。ここにいう美の日本的源泉とは、単に美術上に於ける日本的美の性格とか、特質とかを意味するのではない。私の意図するところは、深くわれわれ民族の本能に根ざして他民族の美の理念と或は隔絶し、或は共通し、しかも世界に於ける美の健康な支持者として強力な気魄《きはく》と実質とを持ち、ギリシャ、エジプト、ゴチック、支那というような異質の美の系統に対しても堂々たる位置を占め、殊に近代に於ける世界の美をその廃頽《はいたい》から再起せしめる事に十分に役立ち、今後われわれ民族の努力によって、今日迄甚だ特殊な一隅の美としてのみ世界の人等に認められていたような偏見を一掃すると共に、ますます幅びろな、高度な美の標準として世界に臨む者としての日本美の源泉的性質を考える事にあった。日本美は今後ますます成長し、豊満し、進展するに違いない。而しそれは決して手当り次第の栄養摂取によっては果されない。十分な自覚と静観とを以て我々の進むべき筋道を心得た上での事でなければならない。私はそういう事の一助にもと思って自分の所見を提示するのである。これまで此意味に於ける日本美の重要な源泉的諸分子を挙げて来たが、最後には矢張能面がよく代表する日本美の奥深い含蓄性[#「奥深い含蓄性」に傍点]について一言せねばならぬ。
能面の最も高き美は鎌倉末期から室町時代にかけて成就した。長い間の日本彫刻の伝統であった仏像彫刻が、鎌倉期の中興を経てついに再び廃頽堕落するに至った室町時代に及んで、その精粋が思いがけない能面のようなものに移り、此所に又別途の新らしい美を創《つく》り出した事は奇観である。芸術美が自然を離れれば必ず枯渇して、足利期仏像のような瑣末《さまつ》形式のくり返しに陥り、一度び自然に眼が開けば必ず新鮮の美が油然と起って、室町時代の能面のような幽玄微妙な神韻を創生するに至った事実はわれわれにとって無上の教訓となる芸術上の恐ろしい約束である。
背後に蔚然《うつぜん》たる五山文学の学芸あり、世は南北朝の暗澹《あんたん》たる底流の上に立って興廃常なき中に足利義満等の夢幻の如き栄華は一時に噴火山上の享楽を世上に流通せしめた。この前後の芸術一般が持つ美には、それゆえ毎《つね》に無常迅速の哀感を内に孕《はら》み、外はむしろ威儀の卓然たるものがあった。猿楽は寺坊の間から起ってこれらの将軍と公卿との寵児《ちょうじ》となり、更に慰楽に飢えた民衆一般の支持をうけ、遠く辺陬《へんすう》の地にまで其の余光を分った。能面の急激な発達は斯《か》くして成就せられたのである。仏像の彫刻がただ形式の踏襲に終始し、ただ工人的|末梢《まっしょう》技巧のめまぐるしい累積となり終った時、此の新興芸術たる物まね[#「物まね」に傍点]の生命たる仮面の製作には実に驚くべき斬新の美が創り出された。
能面は物まね演技の劇中人物を表現すべきものであるという条件が、その製作者をして勢い活世間の人間の面貌にまず注視を向けしめた。しかも仏像の類と違って賢愚雅俗のあらゆる人面の芸術的表現を余儀なくさせた。これは人を救う仏でなくて、仏に救われる煩悩の徒である。これは尊崇|措《お》かざる聖者の肖像ではなくして、浮世になみいる妄執に満ちた憐愍《れんびん》すべき餓鬼の相貌である。賢愚おしなべて哀れはかない運命の波に浮沈する盲亀の面貌である。彼岸の仏|菩薩《ぼさつ》でなくて、吾が隣人であり、又自己そのものである。面打といわれる彫刻家の製作にあたっての生きいきした感慨は思いやられる。
こういう凡人の相貌を芸術化するという稀有《けう》な役割を持つ能面が、野卑な悪写実に走らずして、最も高雅な方向に向ったのは、一に当時の洗煉《せんれん》された一般的美意識によると共に、能楽という演技そのものが、その発祥を格式を尚《たっと》ぶ社寺のうちに持ち、謡曲のうしろには五山の碩学《せきがく》が厳として控えて居り、啓書記、兆殿司《ちょうでんす》、斗南、鉄舟徳済というような禅門書画家の輩出数うるに遑《いとま》なきほどの社会的雰囲気の中に育ち、わけて天才世阿弥のような実技者のきびしい幽玄思想に導かれた事によるのである。
能面の美は演技上の必要から来た其の表情の縹渺性《ひょうびょうせい》に多く基いている。喜怒哀楽をむき出しに表現せず、そのいずれでもなく、又そのいずれでもあるような、含みを深く湛《たた》えた美の性格を極限の境にまで追及して得た此の奥深い含蓄性[#「奥深い含蓄性」に傍点]は、世界に類を見ない美の日本的源泉として、今日われわれの内にこんこんと湧いて已《や》まない無限の力を与えてくれる。「般若《はんにゃ》」のような激情の面でさえ、怒であると同時に、悲でもあり、のしかかる強さであると同時に、寂しい自卑自屈の弱さでもある。こういう類の表現は単にそれを理解する事だけですら、恐らく今日の世界に於ける美の感覚の程度では及び難いのではないかと考えられる。われわれは斯《か》かる超高度美を感受し得る美的感覚を、今後あまねく世界の人々にすすめねばならぬ。此の源泉から得た力を更に時代と共に前進せしめねばならぬ。
奥深い含蓄性[#「奥深い含蓄性」に傍点]は元来東洋の持つ特性ではあるが、支那の持つこれと似たような性質とは根本から違っている。例えば倪雲林の墨画が代表するような含蓄性、又は幽玄性には、いつでも平かならざる抵抗性[#「平かならざる抵抗性」に傍点]を内に蔵している。われわれ民族のものはそういう曲折を内に持たない。常に真正面から深く入りこんだ含蓄性、幽玄性なのである。写真の「深井」は中年の女性の美とさびしさと、その人生的な味いとを魂もろとも遺憾なく表現している。此写真を見ていると、いつしらず人間界の深い、遠いところに明滅する美の発光体を心に感ずる。「深井」に限らず、能面の美の牽引性《けんいんせい》はすべて造型と精神との一身同体から来ている。美の日本的源泉としての斯かる含蓄性は今後まるで違った芸術的表現の上にも大きな要素として生きるであろう。
底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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