て賢愚雅俗のあらゆる人面の芸術的表現を余儀なくさせた。これは人を救う仏でなくて、仏に救われる煩悩の徒である。これは尊崇|措《お》かざる聖者の肖像ではなくして、浮世になみいる妄執に満ちた憐愍《れんびん》すべき餓鬼の相貌である。賢愚おしなべて哀れはかない運命の波に浮沈する盲亀の面貌である。彼岸の仏|菩薩《ぼさつ》でなくて、吾が隣人であり、又自己そのものである。面打といわれる彫刻家の製作にあたっての生きいきした感慨は思いやられる。
こういう凡人の相貌を芸術化するという稀有《けう》な役割を持つ能面が、野卑な悪写実に走らずして、最も高雅な方向に向ったのは、一に当時の洗煉《せんれん》された一般的美意識によると共に、能楽という演技そのものが、その発祥を格式を尚《たっと》ぶ社寺のうちに持ち、謡曲のうしろには五山の碩学《せきがく》が厳として控えて居り、啓書記、兆殿司《ちょうでんす》、斗南、鉄舟徳済というような禅門書画家の輩出数うるに遑《いとま》なきほどの社会的雰囲気の中に育ち、わけて天才世阿弥のような実技者のきびしい幽玄思想に導かれた事によるのである。
能面の美は演技上の必要から来た其の表情の縹渺性《ひょうびょうせい》に多く基いている。喜怒哀楽をむき出しに表現せず、そのいずれでもなく、又そのいずれでもあるような、含みを深く湛《たた》えた美の性格を極限の境にまで追及して得た此の奥深い含蓄性[#「奥深い含蓄性」に傍点]は、世界に類を見ない美の日本的源泉として、今日われわれの内にこんこんと湧いて已《や》まない無限の力を与えてくれる。「般若《はんにゃ》」のような激情の面でさえ、怒であると同時に、悲でもあり、のしかかる強さであると同時に、寂しい自卑自屈の弱さでもある。こういう類の表現は単にそれを理解する事だけですら、恐らく今日の世界に於ける美の感覚の程度では及び難いのではないかと考えられる。われわれは斯《か》かる超高度美を感受し得る美的感覚を、今後あまねく世界の人々にすすめねばならぬ。此の源泉から得た力を更に時代と共に前進せしめねばならぬ。
奥深い含蓄性[#「奥深い含蓄性」に傍点]は元来東洋の持つ特性ではあるが、支那の持つこれと似たような性質とは根本から違っている。例えば倪雲林の墨画が代表するような含蓄性、又は幽玄性には、いつでも平かならざる抵抗性[#「平かならざる抵抗性」に傍点]を内に
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