ら救ひ出される事が出来た経歴を持つて居り、私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつたので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さへ其の目標を失つたやうな空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。彼女の生前、私は自分の製作した彫刻を何人よりもさきに彼女に見せた。一日の製作の終りにも其《それ》を彼女と一緒に検討する事が此上《このうえ》もない喜であつた。又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作つた木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫《あいぶ》した。彼女の居ないこの世で誰が私の彫刻をそのやうに子供のやうにうけ入れてくれるであらうか。もう見せる人も居やしないといふ思が私を幾箇月間か悩ました。美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。自分の作つたものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるといふ意識ほど、美術家にとつて力となるものはない。作りたいものを必ず作り上げる潜力となるものはない。製作の結果は或は万人の為のものともなることがあらう。けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらひたいだけで既に一ぱいなのが常である。私はさういふ人を妻の智恵子に持つてゐた。その智恵子が死んでしまつた当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかつた。作りたいものは山ほどあつても作る気になれなかつた。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知つてゐるからである。さういふ幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私と偕《とも》にある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処《そこ》に居る。彼女は何処《どこ》にでも居るのである。
 智恵子が結婚してから死ぬまでの二十四年間の生活は愛と生活苦と芸術への精進と矛盾と、さうして闘病との間断なき一連続に過ぎなかつた。彼女はさういふ渦巻の中で、宿命的に持つてゐた精神上の素質の為に倒れ、歓喜と絶望と信頼と諦観《ていかん》とのあざなはれた波濤《はとう》の間に没し去つた。彼女の追憶について書く事を人から幾度か示唆《しさ》されても今日まで其を書く気がしなかつた。あまりなまなましい苦闘のあとは、たとひ小さな一隅の生活にしても筆にするに忍びなかつたし、又いはば単なる私生活の報告のやうなものに果してどういふ意味があり得るかといふ疑問も強く心を牽制《けんせい》してゐたのである。だが今は書かう。出来るだけ簡単に此の一人の女性の運命を書きとめて置かう。大正昭和の年代に人知れず斯《か》ういふ事に悩み、かういふ事に生き、かういふ事に倒れた女性のあつた事を書き記して、それをあはれな彼女への餞《はなむけ》とする事を許させてもらはう。一人に極まれば万人に通ずるといふことを信じて、今日のやうな時勢の下にも敢て此の筆を執らうとするのである。
 今しづかに振りかへつて彼女の上を考へて見ると、その一生を要約すれば、まづ東北地方福島県二本松町の近在、漆原といふ所の酒造り長沼家に長女として明治十九年に生れ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけてゐるうちに洋画に興味を持ち始め、女子大学卒業後、郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留《とど》まり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家であつた中村|彜《つね》、斎藤与里治、津田|青楓《せいふう》の諸氏に出入して其の影響をうけ、又一方、其頃平塚雷鳥女史等の提起した女子思想運動にも加はり、雑誌「青鞜《せいとう》」の表紙画などを画いたりした。それが明治末年頃の事であり、やがて柳八重子女史の紹介で初めて私と知るやうになり、大正三年に私と結婚した。結婚後も油絵の研究に熱中してゐたが、芸術精進と家庭生活との板ばさみとなるやうな月日も漸く多くなり、その上|肋膜《ろくまく》を病んで以来しばしば病臥《びようが》を余儀なくされ、後年郷里の家君を亡《うしな》ひ、つづいて実家の破産に瀕《ひん》するにあひ、心痛苦慮は一通りでなかつた。やがて更年期の心神変調が因《もと》となつて精神異状の徴候があらはれ、昭和七年アダリン自殺を計り、幸ひ薬毒からは免れて一旦健康を恢復《かいふく》したが、その後あらゆる療養をも押しのけて徐々に確実に進んで来る脳細胞の疾患のため昭和十年には完全に精神分裂症に捉《とら》へられ、其年二月ゼームス坂病院に入院、昭和十三年十月其処でしづかに瞑目《めいもく》したのである。
 彼女の一生は実に単純であり、純粋に一私人的生活に終始し、いささかも社会的意義を有《も》つ生活に触れなかつた。わづかに「青鞜」に関係してゐた短い期間がその社会的接触のあつた時と言へばいえる程度に過ぎなかつた。社会的関心を持たなかつたばかりでなく、生来社交的でなかつた。「青鞜」に関係してゐた頃|所謂《いはゆる》新らしい女の一人として一部の人達の間に相当に顔を知られ、長沼智恵子といふ名がその仲間の口に時々上つたのも、実は当時のゴシツプ好きの連中が尾鰭《をひれ》をつけていろいろ面白さうに喧伝《けんでん》したのが因であつて、本人はむしろ無口な、非社交的な非論理的な、一途《いちず》な性格で押し通してゐたらしかつた。長沼さんとは話がしにくいといふのが当時の女友達の本当の意見のやうであつた。私は其頃の彼女をあまり善く知らないのであるが、津田青楓氏が何かに書いてゐた中に、彼女が高い塗下駄をはいて着物の裾を長く引きずるやうにして歩いてゐたのをよく見かけたといふやうな事があつたのを記憶する。そんな様子や口数の少いところから何となく人が彼女に好奇的な謎《なぞ》でも感じてゐたのではないかと思はれる。女|水滸伝《すいこでん》のやうに思はれたり、又|風情《ふぜい》ごのみのやうに言はれたりしたやうであるが実際はもつと素朴で無頓着《むとんちやく》であつたのだらうと想像する。
 私は彼女の前半生を殆ど全く知らないと言つていい。彼女について私が知つてゐるのは紹介されて彼女と識《し》つてから以後の事だけである。現在の事で一ぱいで、以前の事を知らうとする気も起らなかつたし、年齢さへ実は後年まで確実には知らなかつたのである。私が知つてからの彼女は実に単純|真摯《しんし》な性格で、心に何か天上的なものをいつでも湛《たた》へて居り、愛と信頼とに全身を投げ出してゐたやうな女性であつた。生来の勝気から自己の感情はかなり内に抑へてゐたやうで、物腰はおだやかで軽佻《けいちよう》な風は見られなかつた。自己を乗り越えて進まうとする気力の強さには時々驚かされる事もあつたが、又そこに随分無理な努力も人知れず重ねてゐたのである事を今日から考へると推察する事が出来る。
 その時には分らなかつたが、後から考へてみれば、結局彼女の半生は精神病にまで到達するやうに進んでゐたやうである。私との此の生活では外に往く道はなかつたやうに見える。どうしてさうかと考へる前に、もつと別な生活を想像してみると、例へば生活するのが東京でなくて郷里、或は何処かの田園であり、又配偶者が私のやうな美術家でなく、美術に理解ある他の職業の者、殊に農耕牧畜に従事してゐるやうな者であつた場合にはどうであつたらうと考へられる。或はもつと天然の寿を全うし得たかも知れない。さう思はれるほど彼女にとつては肉体的に既に東京が不適当の地であつた。東京の空気は彼女には常に無味乾燥でざらざらしてゐた。女子大で成瀬校長に奨励され、自転車に乗つたり、テニスに熱中したりして頗《すこぶ》る元気溌剌たる娘時代を過したやうであるが、卒業後は概してあまり頑健といふ方ではなく、様子もほつそりしてゐて、一年の半分近くは田舎や、山へ行つてゐたらしかつた。私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体《からだ》が保《も》たないのであつた。彼女はよく東京には空が無いといつて歎《なげ》いた。私の「あどけない話」といふ小詩がある。

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智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいふ。
阿多多羅山《あたたらやま》の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
[#ここで字下げ終わり]

 私自身は東京に生れて東京に育つてゐるため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染《なじ》む事だらうと思つてゐたが、彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかつた。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしてゐた。家のまはりに生える雑草の飽くなき写生、その植物学的探究、張出窓での百合《ゆり》花やトマトの栽培、野菜類の生食、ベトオフエンの第六交響楽レコオドへの惑溺《わくでき》といふやうな事は皆この要求充足の変形であつたに相違なく、此の一事だけでも半生に亙《わた》る彼女の表現し得ない不断のせつなさは想像以上のものであつたであらう。その最後の日、死ぬ数時間前に私が持つて行つたサンキストのレモンの一顆《いつか》を手にした彼女の喜も亦《また》この一筋につながるものであつたらう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗はれてゐるやうに見えた。
 彼女がつひに精神の破綻《はたん》を来すに至つた更に大きな原因は何といつてもその猛烈な芸術精進と、私への純真な愛に基く日常生活の営みとの間に起る矛盾|撞着《どうちやく》の悩みであつたであらう。彼女は絵画を熱愛した。女子大在学中既に油絵を画いてゐたらしく、学芸会に於《お》ける学生劇の背景製作などをいつも引きうけて居たといふ事であり、故郷の両親が初めは反対してゐたのに遂に画家になる事を承認したのも、其頃画いた祖父の肖像画の出来|栄《ばえ》が故郷の人達を驚かしたのに因ると伝へ聞いてゐる。この油絵は、私も後に見たが、素朴な中に渋い調和があり、色価の美しい作であつた。卒業後数年間の絵画については私はよく知らないが、幾分情調本位な甘い気分のものではなかつたかと思はれる。其頃のものを彼女はすべて破棄してしまつて私には見せなかつた。僅かに素描の下描などで私は其を想像するに過ぎなかつた。私と一緒になつてからは主に静物の勉強をつづけ幾百枚となく画いた。風景は故郷に帰つた時や、山などに旅行した時にかき、人物は素描では描いたが、油絵ではつひにまだ本格的に画くまでに至らなかつた。彼女はセザンヌに傾倒してゐて自然とその影響をうける事も強かつた。私もその頃は彫刻の外に油絵も画いてゐたが、勉強の部屋は別にしてゐた。彼女は色彩について実に苦しみ悩んだ。そして中途半端の成功を望まなかつたので自虐に等しいと思はれるほど自分自身を責めさいなんだ。或年、故郷に近い五色温泉に夏を過して其処の風景を画いて帰つて来た。その中の小品に相当に佳《よ》いものがあつたので、彼女も文展に出品する気になつて、他の大幅のものと一緒にそれを搬入したが、鑑査員の認めるところとならずに落選した。それ以来いくらすすめても彼女は何処の展覧会へも出品しようとしなかつた。自己の作品を公衆に展示する事によつて何か内に鬱積《うつせき》す
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