の点点があなたのうちの酒庫《さかぐら》。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国《きたぐに》の木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

[#天から27字下げ]大正一二・三
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  狂奔する牛

ああ、あなたがそんなにおびえるのは
今のあれを見たのですね。
まるで通り魔のやうに、
この深山のまき[#「まき」に傍点]の林をとどろかして、
この深い寂寞《じやくまく》の境にあんな雪崩《なだれ》をまき起して、
今はもうどこかへ往つてしまつた
あの狂奔する牛の群を。

今日はもう止しませう、
画きかけてゐたあの穂高の三角の屋根に
もうテル ヴエルトの雲が出ました
槍の氷を溶かして来る
あのセルリヤンの梓川《あづさがは》に
もう山山がかぶさりました。
谷の白楊《はくよう》が遠く風になびいてゐます。
今日はもう画くのを止して
この人跡たえた神苑をけがさぬほどに
又好きな焚火《たきび》をしませう。
天然がきれいに掃き清めたこの苔《こけ》の上に
あなたもしづかにおすわりなさい。

あなたがそんなにおびえるのは
どつと逃げる牝牛の群を追ひかけて
ものおそろしくも息せき切つた、
血まみれの、若い、あの変貌した牡牛をみたからですね。
けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を
いつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう。
もつと多くの事をこの身に知つて、
いつかは静かな愛にほほゑみながら――

[#天から27字下げ]大正一四・六
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  金

工場の泥を凍らせてはいけない。
智恵子よ、
夕方の台所が如何に淋しからうとも、
石炭は焚かうね。
寝部屋の毛布が薄ければ、
上に坐蒲団をのせようとも、
夜明けの寒さに、
工場の泥を凍らせてはいけない。
私は冬の寝ずの番、
水銀柱の斥候《ものみ》を放つて、
あの北風に逆襲しよう。
少しばかり正月が淋しからうとも、
智恵子よ、
石炭は焚かうね。

[#天から27字下げ]大正一五・二
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  鯰

盥《たらひ》の中でぴしやりとはねる音がする。
夜が更けると小刀の刃が冴《さ》える。
木を削るのは冬の夜の北風の為事《しごと》である。
煖炉に入れる石炭が無くなつても、
鯰《なまづ》よ、
お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
檜の木片《こつぱ》は私の眷族《けんぞく》、
智恵子は貧におどろかない。
鯰よ、
お前の鰭《ひれ》に剣があり、
お前の尻尾に触角があり、
お前の鰓《あぎと》に黒金の覆輪があり、
さうしてお前の楽天にそんな石頭があるといふのは、
何と面白い私の為事への挨拶であらう。
風が落ちて板の間に蘭の香ひがする。
智恵子は寝た。
私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、
研水《とみづ》を新しくして
更に鋭い明日の小刀を瀏瀏《りゆうりゆう》と研ぐ。

[#天から27字下げ]大正一五・二

  夜の二人

私達の最後が餓死であらうといふ予言は、
しとしとと雪の上に降る霙《みぞれ》まじりの夜の雨の言つた事です。
智恵子は人並はづれた覚悟のよい女だけれど
まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持つてゐます。
私達はすつかり黙つてもう一度雨をきかうと耳をすましました。
少し風が出たと見えて薔薇《ばら》の枝が窓硝子に爪を立てます。

[#天から27字下げ]大正一五・三
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  あなたはだんだんきれいになる

をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽《せいれつ》な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。

[#天から27字下げ]昭和二・一
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  あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山《あたたらやま》の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。

[#天から27字下げ]昭和三・五
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  同棲同類

――私は口をむすんで粘土をいぢる。
――智恵子はトンカラ機《はた》を織る。
――鼠は床にこぼれた南京《ナンキン》豆を取りに来る。
――それを雀が横取りする。
――カマキリは物干し綱に鎌を研ぐ。
――蠅とり蜘蛛《ぐも》は三段飛。
――かけた手拭はひとりでじやれる。
――郵便物ががちやりと落ちる。
――時計はひるね。
――鉄瓶《てつびん》もひるね。
――芙蓉《ふよう》の葉は舌を垂らす。
――づしんと小さな地震。
油蝉を伴奏にして
この一群の同棲同類の頭の上から
子午線上の大火団がまつさかさまにがつと照らす。

[#天から27字下げ]昭和三・八
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  美の監禁に手渡す者

納税告知書の赤い手触りが袂《たもと》にある、
やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。

売る事の理不尽、購《あがな》ひ得るものは所有し得る者、
所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。

両立しない造形の秘技と貨幣の強引、
両立しない創造の喜と不耕|貪食《どんしよく》の苦《にが》さ。

がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片《こつぱ》、
ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。

[#天から27字下げ]昭和六・三
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  人生遠視

足もとから鳥がたつ
自分の妻が狂気する
自分の着物がぼろになる
照尺距離三千メートル
ああこの鉄砲は長すぎる

[#天から27字下げ]昭和一〇・一
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  風にのる智恵子

狂つた智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する
防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴《さつきばれ》の風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣《ゆかた》が松にかくれ又あらはれ
白い砂には松露がある
わたしは松露をひろひながら
ゆつくり智恵子のあとをおふ
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ

[#天から27字下げ]昭和一〇・四
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  千鳥と遊ぶ智恵子

人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾《あし》あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

[#天から27字下げ]昭和一二・7
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  値《あ》ひがたき智恵子

智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為《す》る。

智恵子は現身《うつしみ》のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。

[#天から27字下げ]昭和一二・七
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  山麓の二人

二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく靡《なび》いて波うち
芒《すすき》ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂へる妻は草を藉《し》いて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに慟哭《どうこく》する
――わたしもうぢき駄目になる
意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
のがれる途《みち》無き魂との別離
その不可抗の予感
――わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙つて妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返つて
わたくしに縋《すが》る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃《げき》として二人をつつむこの天地と一つになつた。

[#天から27字下げ]昭和一三・六
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  或る日の記

水墨の横ものを描きをへて
その乾くのを待ちながら立つてみて居る
上高地から見た前穂高の岩の幔幕《まんまく》
墨のにじんだ明神|岳《だけ》のピラミツド
作品は時空を滅する
私の顔に天上から霧がふきつけ
私の精神に些《いささ》かの条件反射のあともない
乾いた唐紙《からかみ》はたちまち風にふかれて
このお化屋敷の板の間に波をうつ
私はそれを巻いて小包につくらうとする
一切の苦難は心にめざめ
一切の悲歎は身うちにかへる
智恵子狂ひて既に六年
生活の試練|鬢髪《びんぱつ》為に白い
私は手を休めて荷造りの新聞に見入る
そこにあるのは写真であつた
そそり立つ廬山《ろざん》に向つて無言に並ぶ野砲の列

[#天から27字下げ]昭和一三・八
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  レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉《のど》に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔|山巓《さんてん》でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

[#天から27字下げ]昭和一四・二
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  亡き人に

雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
枕頭《ちんとう》のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

朝風は人のやうに私の五体をめざまし
あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

私は白いシイツをはねて腕をのばし
夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののやうにあなたは立つ

私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる

あなたはまだゐる其処《そこ》にゐる
あなたは万物となつて私に満ちる

私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

[#天から27字下げ]昭和一四・七
[#改ページ]

  梅酒

死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒《うめしゆ》は
十年の重みにどんより澱《よど》んで光を葆《つつ》み、
いま琥珀《こはく》の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨《くりや》に見つけたこの梅酒の芳《かを》りある
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