。結局彼女は口に出さなかつたが、油絵製作に絶望したのであつた。あれほど熱愛して生涯の仕事と思つてゐた自己の芸術に絶望する事はさう容易な心事である筈がない。後年服毒した夜には、隣室に千疋屋《せんびきや》から買つて来たばかりの果物籠が静物風に配置され、画架には新らしい画布が立てかけられてあつた。私はそれを見て胸をつかれた。慟哭《どうこく》したくなつた。
 彼女はやさしかつたが勝気であつたので、どんな事でも自分一人の胸に収めて唯黙つて進んだ。そして自己の最高の能力をつねに物に傾注した。芸術に関する事は素《もと》より、一般教養のこと、精神上の諸問題についても突きつめるだけつきつめて考へて、曖昧《あいまい》をゆるさず、妥協を卑しんだ。いはば四六時中張りきつてゐた弦のやうなもので、その極度の緊張に堪へられずして脳細胞が破れたのである。精根つきて倒れたのである。彼女の此の内部生活の清浄さに私は幾度浄められる思をしたか知れない。彼女にくらべると私は実に茫漠として濁つてゐる事を感じた。彼女の眼を見てゐるだけで私は百の教訓以上のものを感得するのが常であつた。彼女の眼には確かに阿多多羅山の山の上に出てゐる天空があつた。私は彼女の胸像を作る時この眼の及び難い事を痛感して自分の汚なさを恥ぢた。今から考へてみても彼女は到底この世に無事に生きながらへてゐられなかつた運命を内部的にも持つてゐたやうに見える。それほど隔絶的に此の世の空気と違つた世界の中に生きてゐた。私は時々何だか彼女は仮にこの世に存在してゐる魂のやうに思へる事があつたのを記憶する。彼女には世間慾といふものが無かつた。彼女は唯ひたむきに芸術と私とへの愛によつて生きてゐた。さうしていつでも若かつた。精神の若さと共に相貌の若さも著しかつた。彼女と一緒に旅行する度に、ゆくさきざきで人は彼女を私の妹と思つたり、娘とさへ思つたりした。彼女には何かさういふ種類の若さがあつて、死ぬ頃になつても五十歳を超えた女性とは一見して思へなかつた。結婚当時も私は彼女の老年といふものを想像する事が出来ず、「あなたでもお婆さんになるかしら」と戯れに言つたことがあるが、彼女はその時、「私年とらないうちに死ぬわ」と不用意に答へたことのあるのを覚えてゐる。さうしてまつたくその通りになつた。
 精神病学者の意見では、普通の健康人の脳は随分ひどい苦悩にも堪へられるものであり、精神病に陥る者は、大部分何等かの意味でその素質を先天的に持つてゐるか、又は怪我とか悪疾とかによつて後天的に持たせられた者であるといふ事である。彼女の家系には精神病の人は居なかつたやうであるが、ただ彼女の弟である実家の長男はかなり常規を逸した素行があり、そのため遂に実家は破産し、彼自身は悪疾をも病んで陋巷《らうこう》に窮死した。しかし遺伝的といひ得る程強い素質がそこに流れてゐると信じられない。又彼女は幼児の時切石で頭蓋にひどい怪我をした事があるといふ事であるがこれも其の後何の故障もなく平癒してしまつて後年の病気に関係があるとも思へない。又彼女が脳に変調を起した時、医者は私に外国で或る病気の感染を受けた事はないかと質問した。私にはまつたく其の記憶がなかつたし、又私の血液と彼女の血液とを再三検査してもらつたが、いつも結果は陰性であつた。さうすると彼女の精神分裂症といふ病気の起る素質が彼女に肉体的に存在したとは確定し難いのである。だが又あとから考へると、私が知つて以来の彼女の一切の傾向は此の病気の方へじりじりと一歩づつ進んでゐたのだとも取れる。その純真さへも唯ならぬものがあつたのである。思ひつめれば他の一切を放棄して悔まづ、所謂《いはゆる》矢も楯もたまらぬ気性を持つてゐたし、私への愛と信頼の強さ深さは殆ど嬰児のそれのやうであつたといつていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであつた。言ふことが出来れば彼女はすべて異常なのであつた。私が「樹下の二人」といふ詩の中で、

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ここはあなたの生れたふるさと
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
[#ここで字下げ終わり]

と歌つたのも此の実感から来てゐるのであつた。彼女が一歩づつ最後の破綻《はたん》に近づいて行つたのか、病気が螺線《らせん》のやうにぎりぎりと間違なく押し進んで来たのか、最後に近くなつてからはじめて私も何だか変なのではないかとそれとなく気がつくやうになつたのであつて、それまでは彼女の精神状態などについて露ほどの疑も抱いてはゐなかつた。つまり彼女は異常ではあつたが、異状ではなかつたのである。はじめて異状を感じたのは彼女の更年期が迫つて来た頃の事である。
 追憶の中の彼女をここに簡単に書きとめて置かう。
 前述の通り長沼智恵子を私に紹介したのは女子大の先輩柳八重子女史であつた。女史
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