あなたの前では恥しい。
あなたこそまことの自由を求めました。
求められない鉄の囲《かこひ》の中にゐて、
あなたがあんなに求めたものは、
結局あなたを此世の意識の外に逐《お》ひ、
あなたの頭をこはしました。
あなたの苦しみを今こそ思ふ。
日本の形は変りましたが、
あの苦しみを持たないわれわれの変革を
あなたに報告するのはつらいことです。

[#天から27字下げ]昭和二二・六
[#改ページ]

  噴霧的な夢

あのしやれた登山電車で智恵子と二人、
ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。
夢といふものは香料のやうに微粒的で
智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。
ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
ガスの火が噴射機《ジエツトプレイン》のやうに吹き出てゐた。
その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
智恵子はほのぼのと美しく清浄で
しかもかぎりなき惑溺《わくでき》にみちてゐた。
あの山の水のやうに透明な女体を燃やして
私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。
そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
昨日までの私の全存在の異和感が消えて
午前五時の秋爽《さわ》やかな山の小屋で目がさめた。

[#天から27字下げ]昭和二三・九
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  もしも智恵子が

もしも智恵子が私といつしよに
岩手の山の源始の息吹《いぶき》に包まれて
いま六月の草木の中のここに居たら、
ゼンマイの綿帽子がもうとれて
キセキレイが井戸に来る山の小屋で
ことしの夏がこれから始まる
洋々とした季節の朝のここに居たら、
智恵子はこの三畳敷で目をさまし、
両手を伸して吹入るオゾンに身うちを洗ひ、
やつぱり二十代の声をあげて
十本一本のマツチをわらひ、
杉の枯葉に火をつけて
囲炉裏の鍋《なべ》でうまい茶粥《ちやがゆ》を煮るでせう。
畑の絹さやゑん豆をもぎつてきて
サフアイヤ色の朝の食事に興じるでせう。
もしも智恵子がここに居たら、
奥州南部の山の中の一軒家が
たちまち真空管の機構となつて
無数の強いエレクトロンを飛ばすでせう。

[#天から27字下げ]昭和二四・三
[#改ページ]

  元素智恵子

智恵子はすでに元素にかへつた。
わたくしは心霊独存の理を信じない。
智恵子はしかも実存する。
智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火を燃やし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、
わたくしを老いぼれの餌食《ゑじき》にさせない。
精神とは肉体の別の名だ。
わたくしの肉に居る智恵子は、
そのままわたくしの精神の極北。
智恵子はこよなき審判者であり、
うちに智恵子の睡る時わたくしは過《あやま》ち、
耳に智恵子の声をきく時わたくしは正しい。
智恵子はただ※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]々《きき》としてとびはね、
わたくしの全存在をかけめぐる。
元素智恵子は今でもなほ
わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。

[#天から27字下げ]昭和二四・一〇
[#改ページ]

  メトロポオル

智恵子が憧れてゐた深い自然の真只中に
運命の曲折はわたくしを叩きこんだ。
運命は生きた智恵子を都会に殺し、
都会の子であるわたくしをここに置く。
岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、
わたくしを囲んで仮借しない。
虚偽と遊惰とはここの土壌に生存できず、
わたくしは自然のやうに一刻を争ひ、
ただ全裸を投げて前進する。
智恵子は死んでよみがへり、
わたくしの肉に宿つてここに生き、
かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ。
変幻きはまりない宇宙の現象、
転変かぎりない世代の起伏、
それをみんな智恵子がうけとめ、
それをわたくしが触知する。
わたくしの心は賑《にぎは》ひ、
山林|孤棲《こせい》と人のいふ
小さな山小屋の囲炉裏に居て
ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ。

[#天から27字下げ]昭和二四・一〇
[#改ページ]

  裸形

智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造型の瑪瑙《めのう》質に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子《ほくろ》まで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造型を生むことは
自然の定めた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小麦と牛酪《バター》とがゆるされる。
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中
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