、精神病に陥る者は、大部分何等かの意味でその素質を先天的に持つてゐるか、又は怪我とか悪疾とかによつて後天的に持たせられた者であるといふ事である。彼女の家系には精神病の人は居なかつたやうであるが、ただ彼女の弟である実家の長男はかなり常規を逸した素行があり、そのため遂に実家は破産し、彼自身は悪疾をも病んで陋巷《らうこう》に窮死した。しかし遺伝的といひ得る程強い素質がそこに流れてゐると信じられない。又彼女は幼児の時切石で頭蓋にひどい怪我をした事があるといふ事であるがこれも其の後何の故障もなく平癒してしまつて後年の病気に関係があるとも思へない。又彼女が脳に変調を起した時、医者は私に外国で或る病気の感染を受けた事はないかと質問した。私にはまつたく其の記憶がなかつたし、又私の血液と彼女の血液とを再三検査してもらつたが、いつも結果は陰性であつた。さうすると彼女の精神分裂症といふ病気の起る素質が彼女に肉体的に存在したとは確定し難いのである。だが又あとから考へると、私が知つて以来の彼女の一切の傾向は此の病気の方へじりじりと一歩づつ進んでゐたのだとも取れる。その純真さへも唯ならぬものがあつたのである。思ひつめれば他の一切を放棄して悔まづ、所謂《いはゆる》矢も楯もたまらぬ気性を持つてゐたし、私への愛と信頼の強さ深さは殆ど嬰児のそれのやうであつたといつていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであつた。言ふことが出来れば彼女はすべて異常なのであつた。私が「樹下の二人」といふ詩の中で、
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ここはあなたの生れたふるさと
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
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と歌つたのも此の実感から来てゐるのであつた。彼女が一歩づつ最後の破綻《はたん》に近づいて行つたのか、病気が螺線《らせん》のやうにぎりぎりと間違なく押し進んで来たのか、最後に近くなつてからはじめて私も何だか変なのではないかとそれとなく気がつくやうになつたのであつて、それまでは彼女の精神状態などについて露ほどの疑も抱いてはゐなかつた。つまり彼女は異常ではあつたが、異状ではなかつたのである。はじめて異状を感じたのは彼女の更年期が迫つて来た頃の事である。
追憶の中の彼女をここに簡単に書きとめて置かう。
前述の通り長沼智恵子を私に紹介したのは女子大の先輩柳八重子女史であつた。女史
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