ついて実に苦しみ悩んだ。そして中途半端の成功を望まなかったので自虐に等しいと思われるほど自分自身を責めさいなんだ。或年、故郷に近い五色温泉に夏を過して其処の風景を画いて帰って来た。その中の小品に相当に佳いものがあったので、彼女も文展に出品する気になって、他の大幅のものと一緒にそれを搬入したが、鑑査員の認めるところとならずに落選した。それ以来いくらすすめても彼女は何処の展覧会へも出品しようとしなかった。自己の作品を公衆に展示する事によって何か内に鬱積《うっせき》するものを世に訴え、外に発散せしめる機会を得るという事も美術家には精神の助けとなるものだと思うのであるが、そういう事から自己を内に閉じこめてしまったのも精神の内攻的傾向を助長したかも知れない。彼女は最善をばかり目指していたので何時でも自己に不満足であり、いつでも作品は未完成に終った。又事実その油絵にはまだ色彩に不十分なもののある事は争われなかった。その素描にはすばらしい力と優雅とを持っていたが、油絵具を十分に克服する事がどうしてもまだ出来なかった。彼女はそれを悲しんだ。時々はひとり画架の前で涙を流していた。偶然二階の彼女の部屋に行ってそういうところを見ると、私も言いしれぬ寂しさを感じ慰の言葉も出ない事がよくあった。ところで、私は人の想像以上に生活不如意で、震災前後に唯一度女中を置いたことがあるだけで、其他は彼女と二人きりの生活であったし、彼女も私も同じ様な造型美術家なので、時間の使用について中々むつかしいやりくりが必要であった。互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓《ていとん》してしまう。そういう日々もかなり重なり、結局やっぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず、おまけに私が昼間彫刻の仕事をすれば、夜は食事の暇も惜しく原稿を書くというような事が多くなるにつれて、ますます彼女の絵画勉強の時間が喰われる事になるのであった。詩歌のような仕事などならば、或は頭の中で半分は進める事も出来、かなり零細な時間でも利用出来るかと思うが、造型美術だけは或る定まった時間の区劃《くかく》が無ければどうする事も出来ないので、この点についての彼女の苦慮は思いやられるものであった。彼女はどんな事があっても私の仕事の時間を減らすまいとし、私の彫刻をかばい、私を雑用から防ごうと懸命に努力をした。彼女はいつの間にか油絵勉強の時間を縮小し、或時は粘土で彫刻を試みたり、又後には絹糸をつむいだり、其を草木染にしたり、機織を始めたりした。二人の着物や羽織を手織で作ったのが今でも残っている。同じ草木染の権威山崎斌氏は彼女の死んだ時弔電に、

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袖のところ一すぢ青きしまを織りて
あてなりし人今はなしはや
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という歌を書いておくられた。結局彼女は口に出さなかったが、油絵製作に絶望したのであった。あれほど熱愛して生涯の仕事と思っていた自己の芸術に絶望する事はそう容易な心事である筈がない。後年服毒した夜には、隣室に千疋屋から買って来たばかりの果物籠《くだものかご》が静物風に配置され、画架には新らしい画布が立てかけられてあった。私はそれを見て胸をつかれた。慟哭《どうこく》したくなった。
 彼女はやさしかったが勝気であったので、どんな事でも自分一人の胸に収めて唯黙って進んだ。そして自己の最高の能力をつねに物に傾注した。芸術に関する事は素より、一般教養のこと、精神上の諸問題についても突きつめるだけつきつめて考えて、曖昧《あいまい》をゆるさず、妥協を卑しんだ。いわば四六時中張りきっていた弦のようなもので、その極度の緊張に堪えられずして脳細胞が破れたのである。精根つきて倒れたのである。彼女の此の内部生活の清浄さに私は幾度|浄《きよ》められる思をしたか知れない。彼女にくらべると私は実に茫漠として濁っている事を感じた。彼女の眼を見ているだけで私は百の教訓以上のものを感得するのが常であった。彼女の眼には確かに阿多多羅山の山の上に出ている天空があった。私は彼女の胸像を作る時この眼の及び難い事を痛感して自分の汚なさを恥じた。今から考えてみても彼女は到底この世に無事に生きながらえていられなかった運命を内部的にも持っていたように見える。それほど隔絶的に此の世の空気と違った世界の中に生きていた。私は時々何だか彼女は仮にこの世に存在している魂のように思える事があったのを記憶する。彼女には世間慾というものが無かった。彼女は唯ひたむきに芸術と私とへの愛によって生きていた。そうしていつでも若かった。精神の若さと共に相貌の若さも著しかった。彼女と一緒に旅行する度に、ゆくさきざきで人は彼女を私の妹と思ったり、娘とさえ思ったりした。彼女には何かそういう種類の若さがあって、死ぬ頃になっても五十歳を超えた女性とは一見して思えなかった。結婚当時も私は彼女の老年というものを想像する事が出来ず、「あなたでもお婆さんになるかしら」と戯れに言った事があるが、彼女はその時、「私年とらないうちに死ぬわ」と不用意に答えたことのあるのを覚えている。そうしてまったくその通りになった。
 精神病学者の意見では、普通の健康人の脳は随分ひどい苦悩にも堪えられるものであり、精神病に陥る者は、大部分何等かの意味でその素質を先天的に持っているか、又は怪我とか悪疾とかによって後天的に持たせられた者であるという事である。彼女の家系には精神病の人は居なかったようであるが、ただ彼女の弟である実家の長男はかなり常規を逸した素行があり、そのため遂に実家は破産し、彼自身は悪疾をも病んで陋巷《ろうこう》に窮死した。しかし遺伝的といい得る程強い素質がそこに流れていると信じられない。又彼女は幼児の時切石で頭蓋《ずがい》にひどい怪我をした事があるという事であるがこれも其の後何の故障もなく平癒してしまって後年の病気に関係があるとも思えない。又彼女が脳に変調を起した時、医者は私に外国で或る病気の感染を受けた事はないかと質問した。私にはまったく其の記憶がなかったし、又私の血液と彼女の血液とを再三検査してもらったが、いつも結果は陰性であった。そうすると彼女の精神分裂症という病気の起る素質が彼女に肉体的に存在したとは確定し難いのである。だが又あとから考えると、私が知って以来の彼女の一切の傾向は此の病気の方へじりじりと一歩ずつ進んでいたのだとも取れる。その純真さえも唯ならぬものがあったのである。思いつめれば他の一切を放棄して悔まず、所謂《いわゆる》矢も楯《たて》もたまらぬ気性を持っていたし、私への愛と信頼の強さ深さは殆ど嬰児《えいじ》のそれのようであったといっていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであった。言うことが出来れば彼女はすべて異常なのであった。私が「樹下の二人」という詩の中で、

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ここがあなたの生れたふるさと
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
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と歌ったのも此の実感から来ているのであった。彼女が一歩ずつ最後の破綻《はたん》に近づいて行ったのか、病気が螺旋《らせん》のようにぎりぎりと間違なく押し進んで来たのか、最後に近くなってからはじめて私も何だか変なのではないかとそれとなく気がつくようになったのであって、それまでは彼女の精神状態などについて露ほどの疑も抱いてはいなかった。つまり彼女は異常ではあったが、異状ではなかったのである。はじめて異状を感じたのは彼女の更年期が迫って来た頃の事である。
 追憶の中の彼女をここに簡単に書きとめて置こう。
 前述の通り長沼智恵子を私に紹介したのは女子大の先輩柳八重子女史であった。女史は私の紐育《ニューヨーク》時代からの友人であった画家柳敬助君の夫人で当時桜楓会の仕事をして居られた。明治四十四年の頃である。私は明治四十二年七月にフランスから帰って来て、父の家の庭にあった隠居所の屋根に孔《あな》をあけてアトリエ代りにし、そこで彫刻や油絵を盛んに勉強していた。一方神田淡路町に琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]洞《ろうかんどう》という小さな美術店を創設して新興芸術の展覧会などをやったり、当時日本に勃興したスバル一派の新文学運動に加わったりしていたと同時に、遅蒔《おそまき》の青春が爆発して、北原白秋氏、長田秀雄氏、木下杢太郎氏などとさかんに往来してかなり烈《はげ》しい所謂《いわゆる》耽溺《たんでき》生活に陥っていた。不安と焦躁《しょうそう》と渇望と、何か知られざるものに対する絶望とでめちゃめちゃな日々を送り、遂に北海道移住を企てたり、それにも忽《たちま》ち失敗したり、どうなる事か自分でも分らないような精神の危機を経験していた時であった。柳敬助君に友人としての深慮があったのかも知れないが、丁度そういう時彼女が私に紹介されたのであった。彼女はひどく優雅で、無口で、語尾が消えてしまい、ただ私の作品を見て、お茶をのんだり、フランス絵画の話をきいたりして帰ってゆくのが常であった。私は彼女の着こなしのうまさと、きゃしゃな姿の好ましさなどしか最初は眼につかなかった。彼女は決して自分の画いた絵を持って来なかったのでどんなものを画いているのかまるで知らなかった。そのうち私は現在のアトリエを父に建ててもらう事になり、明治四十五年には出来上って、一人で移り住んだ。彼女はお祝にグロキシニヤの大鉢を持って此処へ訪ねて来た。丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来ていて又会った。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時|若《も》し私が何か無理な事でも言い出すような事があったら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだったという事であった。私はそんな事は知らなかったが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかという予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれていた。
 やがて彼女から熱烈な手紙が来るようになり、私も此の人の外に心を託すべき女性は無いと思うようになった。それでも幾度か此の心が一時的のものではないかと自ら疑った。又彼女にも警告した。それは私の今後の生活の苦闘を思うと彼女をその中に巻きこむに忍びない気がしたからである。其の頃せまい美術家仲間や女人達の間で二人に関する悪質のゴシップが飛ばされ、二人とも家族などに対して随分困らせられた。然し彼女は私を信じ切り、私は彼女をむしろ崇拝した。悪声が四辺に満ちるほど、私達はますます強く結ばれた。私は自分の中にある不純の分子や溷濁《こんだく》の残留物を知っているので時々自信を失いかけると、彼女はいつでも私の中にあるものを清らかな光に照らして見せてくれた。

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汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に
をさな児のまこともて
君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ
君の見出でつるものをわれは知らず
ただ我は君をこよなき審判官《さばきのつかさ》とすれば
君によりてこころよろこび
わが知らぬわれの
わが温き肉のうちに籠れるを信ずるなり
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と私も歌ったのである。私を破れかぶれの廃頽《はいたい》気分から遂に引上げ救い出してくれたのは彼女の純一な愛であった。
 大正二年八月九月の二箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田ヴイナス倶楽部《クラブ》で岸田劉生君や木村荘八君等と共に開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。其の頃上高地に行く人は皆島々から岩魚止を経て徳本峠を越えたもので、かなりの道のりで
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