殆ど全く知らないと言っていい。彼女について私が知っているのは紹介されて彼女と識《し》ってから以後の事だけである。現在の事で一ぱいで、以前の事を知ろうとする気も起らなかったし、年齢さえ実は後年まで確実には知らなかったのである。私が知ってからの彼女は実に単純|真摯《しんし》な性格で、心に何か天上的なものをいつでも湛《たた》えて居り、愛と信頼とに全身を投げ出していたような女性であった。生来の勝気から自己の感情はかなり内に抑えていたようで、物腰はおだやかで軽佻《けいちょう》な風は見られなかった。自己を乗り越えて進もうとする気力の強さには時々驚かされる事もあったが、又そこに随分無理な努力も人知れず重ねていたのである事を今日から考えると推察する事が出来る。
 その時には分らなかったが、後から考えてみれば、結局彼女の半生は精神病にまで到達するように進んでいたようである。私との此の生活では外に往く道はなかったように見える。どうしてそうかと考える前に、もっと別な生活を想像してみると、例えば生活するのが東京でなくて郷里、或は何処かの田園であり、又配偶者が私のような美術家でなく、美術に理解ある他の職業の者、殊に農耕牧畜に従事しているような者であった場合にはどうであったろうと考えられる。或はもっと天然の寿を全うし得たかも知れない。そう思われるほど彼女にとっては肉体的に既に東京が不適当の地であった。東京の空気は彼女には常に無味乾燥でざらざらしていた。女子大で成瀬校長に奨励され、自転車に乗ったり、テニスに熱中したりして頗《すこぶ》る元気|溌剌《はつらつ》たる娘時代を過したようであるが、卒業後は概してあまり頑健という方ではなく、様子もほっそりしていて、一年の半分近くは田舎や、山へ行っていたらしかった。私と同棲《どうせい》してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰っていた。田舎の空気を吸って来なければ身体が保たないのであった。彼女はよく東京には空が無いといって歎《なげ》いた。私の「あどけない話」という小詩がある。

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智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいふ。
阿多多羅山の山の上に

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