あった。その夏同宿には窪田空穂氏や、茨木猪之吉氏も居られ、又丁度穂高登山に来られたウエストン夫妻も居られた。九月に入ってから彼女が画の道具を持って私を訪ねて来た。その知らせをうけた日、私は徳本峠を越えて岩魚止まで彼女を迎えに行った。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登って来た。山の人もその健脚に驚いていた。私は又徳本峠を一緒に越えて彼女を清水屋に案内した。上高地の風光に接した彼女の喜は実に大きかった。それから毎日私が二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまわった。彼女は其の頃|肋膜《ろくまく》を少し痛めているらしかったが山に居る間はどうやら大した事にもならなかった。彼女の作画はこの時始めて見た。かなり主観的な自然の見方で一種の特色があり、大成すれば面白かろうと思った。私は穂高、明神、焼岳、霞沢、六百岳、梓川と触目を悉《ことごと》く画いた。彼女は其の時私の画いた自画像の一枚を後年|病臥《びょうが》中でも見ていた。その時ウエストンから彼女の事を妹さんか、夫人かと問われた。友達ですと答えたら苦笑していた。当時東京の或新聞に「山上の恋」という見出しで上高地に於ける二人の事が誇張されて書かれた。多分下山した人の噂話を種にしたものであろう。それが又家族の人達の神経を痛めさせた。十月一日に一山|挙《こぞ》って島々へ下りた。徳本峠の山ふところを埋めていた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思い出して語った。
 それ以来私の両親はひどく心配した。私は母に実にすまないと思った。父や母の夢は皆破れた。所謂《いわゆる》洋行帰りを利用して彫刻界へ押し出す事もせず、学校の先生をすすめても断り、然るべき江戸前のお嫁さんも貰わず、まるで了見が分らない事になってしまった。実にすまないと思ったが、結局大正三年に智恵子との結婚を許してもらうように両親に申出た。両親も許してくれた。両親のもとにかしずかず、アトリエに別居するわけなので、土地家屋等一切は両親と同居する弟夫妻の所有とする事にきめて置いた。私達二人はまったく裸のままの家庭を持った。もちろん熱海行などはしなかった。それから実に長い間の貧乏生活がつづいたのである。
 彼女は裕福な豪家に育ったのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかった。私が金に困って古着屋を呼んで洋服を売って居ても平気で見ていたし、勝手元の引出
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