作りたいものは山ほどあっても作る気になれなかった。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知っているからである。そういう幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失う事によって却《かえっ》て私にとっては普遍的存在となったのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言わば彼女は私と偕《とも》にある者となり、私にとっての永遠なるものであるという実感の方が強くなった。私はそうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終って製作を眺める時「どうだろう」といって後ろをふりむけば智恵子はきっと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。
 智恵子が結婚してから死ぬまでの二十四年間の生活は愛と生活苦と芸術への精進と矛盾と、そうして闘病との間断なき一連続に過ぎなかった。彼女はそういう渦巻の中で、宿命的に持っていた精神上の素質の為に倒れ、歓喜と絶望と信頼と諦観《ていかん》とのあざなわれた波濤《はとう》の間に没し去った。彼女の追憶について書く事を人から幾度か示唆されても今日まで其を書く気がしなかった。あまりなまなましい苦闘のあとは、たとい小さな一隅の生活にしても筆にするに忍びなかったし、又いわば単なる私生活の報告のようなものに果してどういう意味があり得るかという疑問も強く心を牽制《けんせい》していたのである。だが今は書こう。出来るだけ簡単に此の一人の女性の運命を書きとめて置こう。大正昭和の年代に人知れず斯《こ》ういう事に悩み、こういう事に生き、こういう事に倒れた女性のあった事を書き記して、それをあわれな彼女への餞《はなむけ》とする事を許させてもらおう。一人に極まれば万人に通ずるということを信じて、今日のような時勢の下にも敢て此の筆を執ろうとするのである。
 今しずかに振りかえって彼女の上を考えて見ると、その一生を要約すれば、まず東北地方福島県二本松町の近在、漆原という所の酒造り長沼家に長女として明治十九年に生れ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけているうちに洋画に興味を持ち始め、女子大卒業後、郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留まり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家であった中村彝、斎藤与里治、津田青楓の諸氏に出入して其の影響をうけ、又一方
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