をつかまえるという時、其れは君の裸をつかまえるという事を意味する。人間同志は案外相互の裸を知らないものである。実に荷に余るほどのものを沢山着込んで生きている。彫刻家はその附属物をみんな取ってしまった君自身だけを見たがるのである。一人の碩学《せきがく》がある。その深博な学問は其人自身ではない。その人自身の裸はもっと内奥の処にあたたかく生きている。カントの哲学はカント自身ではない。カント自身はその哲学を貫く中軸の奥に一個の存在として生きている。厨川白村の該博な知識は彼自身ではない。彼自身は別個の存在として著書|堆積裏《たいせきり》に蟠居《ばんきょ》している。その人の裸がその学問と切り離せない程偉大な事もある。又その学問の下に聖読庸行、見るも醜怪な姿をしている事もある。世上で人が人を見る時、多くの場合、その閲歴を、その勲章を、その業績を、その才能を、その思想を、その主張を、その道徳を、その気質、又はその性格を見る。
彫刻家はそういうものを一先ず取り去る。奪い得るものは最後のものまでも奪い取る。そのあとに残るものをつかもうとする。其処まで突きとめないうちは、君を君だと思わないのである。
人間の最後に残るもの、どうしても取り去る事の出来ないもの、外側からは手のつけられないもの、当人自身でも左右し得ぬもの、中から育つより外仕方の無いもの、従って縦横|無礙《むげ》なもの、何にも無くして実存するもの、この名状し難い人間の裸を彫刻家は観破したがるのである。だが裸は埋没され叮嚀《ていねい》に匿《かく》されているのが常である。善いにせよ、悪いにせよ、それが事実である。いくら理想家でも、人間に即刻裸で歩けとは言えないであろう。実に人世とは裸を埋没させる道場かと見えるばかりだ。しかし、着物が多くても少くても実際は構わない程、結局するところ、人はのがれられないものである。価値を絶したところに、其の人の真の姿があらわれて来る。彫刻家は此の無価値に触れたがる。なるほど人生には敵味方がある。又其の故に社会は進展する。けれども彫刻家の触覚はもっとその奥の処にごッつりしたものを探ろうとする。だから彼の見方は大抵の場合此の現世に逆行する。現世を縦に割る見方である。其処までゆかないと落ちつかない。人生の裸をつかまえなければ、人生を人生と思えない。人生の裸とは唯世間の真相をのみ意味するのではない。所謂現実
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング