強い腕があり、口吻が又実に比例よく体の中央に針を垂れ、総体に単純化し易く、面に無駄が出ない。セミの美しさの最も微妙なところは、横から翅を見た時の翅の山の形をした線にある。頭から胸背部へかけて小さな円味を持つところへ、翅の上縁がずっと上へ立ち上り、一つの頂点を作って再び波をうって下の方へなだれるように低まり、一寸又立ち上って終っている工合が他の何物にも無いセミ特有の線である。翅の上縁の波形と下縁の単一な曲線との対照が美しい。セミの持つ線の美の極致と言える。その波形の比例はセミの種類によってそれぞれの特色を持つ。又セミを横から見ず、上方から見ても翅の美はすばらしい。左右の二枚がよく整斉を保ち、外郭はゆるい強い曲線を描いてはるかに後端まで走り、内側は大きい波形を左右から合せるように描き、後半は又開いて最末端でちょっと引きしまる。セミは生きている時も死んでからも大して形に変化を来さないが、此の翅の末端だけは違う。生きている時には其がかすかに内側にしまっているが、死ぬと其処が開いた形のままで終るようになる。むろんかすかにしまっている方が美しい。木彫ではこの薄い翅の彫り方によって彫刻上の面白さに差を生ずる。この薄いものを薄く彫ってしまうと下品になり、がさつになり、ブリキのように堅くなり、遂に彫刻性を失う。これは肉合いの妙味によって翅の意味を解釈し、木材の気持に随《したが》って処理してゆかねばならない。多くの彫金製のセミが下品に見えるのは此の点を考えないためである。すべて薄いものを実物のように薄く作ってしまうのは浅はかである。丁度逆なくらいに作ってよいのである。木彫に限らず、此の事は彫刻全般、芸術全般の問題としても真である。むやみに感激を表面に出した詩歌が必ずしも感激を伝えず、がさつで、ダルである事があり、却《かえっ》て逆な表現に強い感激のあらわれる事のあるようなものである。そうかといって、セミの翅をただ徒《いたずら》に厚く彫ればそれこそ厚ぼったくて、愚鈍で、どてらを着たセミになってしまう。あつくてしかもあつさを感じない事。これは彫刻上の肉合いと面の取扱とによってのみ可能となるのである。しかも彫刻そのものはそんな事が問題にならない程すらすらと眼に入るべきで、まるで翅の厚薄などという事は気のつかないのがいいのである。何だかあたり前に出来ていると思えれば最上なのである。それが美である。この場合、彫刻家はセミのようなもの[#「セミのようなもの」に傍点]を作っているのでなくて、セミに因る造型美を彫刻しているのだからである。それ故にこそ彫刻家はセミの形態について厳格な科学的研究を遂げ、その形成の原理を十分にのみこんでいなければならないのである。微細に亘った知識を持たなければ安心してその造型性を探求する事が出来ない。いい加減な感じや、あてずっぽうでは却て構成上の自由が得られないのである。自由であって、しかも根蔕《こんたい》のあるものでなければ真の美は生じない。
埃及《エジプト》人が永生の象徴として好んで甲虫《スカラベイ》のお守を彫ったように、古代ギリシャ人は美と幸福と平和の象徴として好んでセミの小彫刻を作って装身具などの装飾にした。声とその諧調《かいちょう》の美とを賞したのだという。日本のセミは一般に喧《やかま》しいもののように取られ、アブラなどは殊に暑くるしいものの代表とされているが、あまり樹木の無いギリシャのセミはもっと静かな声なのかも知れない。或はカナカナのような種類なのかも知れない。しかし私は日本のセミの無邪気な力一ぱいの声が頭のしんまで貫くように響いてくるのを大変快く聞く。まして蝉時雨《せみしぐれ》というような言葉で表現されている林間のセミの競演の如きは夢のように美しい夏の贈物だと思う。セミを彫っているとそういう林間の緑したたる涼風が部屋に満ちて来るような気がする。
底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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