は却《かえっ》て俗臭堪えがたいものになる。今日|所謂《いわゆる》六朝風の書家の多くの書が看板字だけの気品しか持たないのは、もともと模すべからざるものを模し、毛筆の自性を殺してひたすら効果ばかりをねらう態度の卑さから来るのである。そういう書を書くものの書などを見ると、ばかばかしい程無神経な俗書であるのが常である。最も高雅なものから最も低俗なものが生れるのは、仏の側に生臭坊主がいるのと同じ通理だ。かかる古|碑碣《ひけつ》の美はただ眼福として朝夕之に親しみ、書の淵源を探る途《みち》として之を究めるのがいいのである。

   五

 羲之《ぎし》の書と称せられているものは、なるほど多くの人の言う通り清和|醇粋《じゅんすい》である。偏せず、激せず、大空のようにひろく、のびのびとしていてつつましく、しかもその造型機構の妙は一点一画の歪みにまで行き届いている。書体に独創が多く、その独創が皆普遍性を持っているところを見ると、よほど優れた良識を具《そな》えていた人物と思われる。右軍の癖というものが考えられず、実に我は法なりという権威と正中性とがある。献之になるともう偏る。恐るべき力量は十分ありながら、父
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