かなか掘るのにめんどうらしい上、製造に手数がかかるので、今ではこの寒ざらし粉はむしろ貴重品だ。
 薬草のオーレンが咲いたり、又ローバイの木に黄いろい木質の花がさいたりしているうちに、今度は一度にどっとゼンマイやワラビが出る。ゼンマイの方が少し早く、白い綿帽子をかぶって山の南側にぞくぞくと生える。これは干ゼンマイにするといいのだが干し方がむつかしいし、山奥のでないと干すと糸のようにほそくなる。ワラビは山の雑草で、いちめんに出て取るのにまに合わないほどである。とってすぐ根もとを焼かないと堅くなる。一束ずつにしてこれを木灰入の熱すぎない湯に一晩つけて、にがみをとり、あげて洗って、今度は一度煮立ててさました塩水につけこみ、軽い重しをして、水からワラビの出ないように気をつける。もう一度塩水をかえてていねいに漬けると、夏から秋、お正月にかけて、まっ青な、歯ぎれのいいワラビの漬ものがたべられる。ワラビの頃あぶないのは野火だが、これは又別にかく。
 やがて、野山にかげろうが立ち、春霞がたつ。秋の夕方は青い霧が山々をうずめてうつくしく、それをわたくしは「バッハの蒼《あお》」と称しているが、春の霞はさすがに明るく、セリュリアン色の蒔箔《まきはく》のように山々の間にういている。遠山はまだ白いが、姿のやさしい、低い山々の地肌にだけ雪がのこって、寒さに焦げた鉾杉《ほこすぎ》や、松の木が、その山々の線を焦茶いろにいろどっているところへ、大和絵のような春霞が裾の方をぼかしている山のかさなりを見ていると、何だか出来立ての大きなあんぱんが湯気をたてて、懐紙の上にいくつも盛られているようで、わたくしは枯草の原の枯木の株に腰をおろして、「これは大きなあんぱんだなあ、うまそうだなあ、」と思って見ている。
 ウグイスという鳥は春のはじめは里の方に多くいるもので人家の庭などでさえずるが、山に来るのは初夏から秋までである。山にいても、どこにいてもこの鳥の声ばかりはあたりを払うような美しさを持っている。山では殊に谷渡りがすばらしい。山の春の鳥はまるで動物園のようで、朝夕はまことにおそろしい。鳥の出席率はどうも朝日の多少に左右されるらしい。キセキレイ、セグロ、コマ、ルリ、ウソ、ヤマガラ、ヤマバト、ヒバリ、とても書いていられないほど多い。いちばんふつうに路ばたにいるのは、やはり頬白で、朝くらいうちから「一筆啓上仕候《いっぴつけいじょうつかまつりそうろう》」とやっている。
 スミレ、タンポポ、ツクシ、アザミの類は地面いちめんを被《おお》っているから、スミレのあのかわいい花を踏みつぶさないでは小径もあるけない。そういう草のわか葉の中にヌノバと土地の人がよんで好んでたべる草がある。大きくなると、学名を「ツリガネニンジン」という草で、このわか葉はうでてゴマやクルミであえるとうまい。つみとると切口から白い乳が出るのでチチグサともいっている。小川のへりには、トリカブトや、ベコノシタなどという毒草が青々と出ているので用心する。大へんうまそうに見える。植物学者白井光太郎博士はトリカブト毒研究で死なれたそうだが、この光太郎はなかなか気をつけて、毒草にうっかりやられたり、何とかいうフランス王のように毒キノコなどに派手にはひっかからないつもりでいる。
 こんなことを書いているうちに季節はかけ足でやってくる。通りすがりの村の青年男女も目がさめたように水々しくなり、手製のスエターも軽そうだ。もうどこを見ても花のないところはなく、幾種類かのヤナギ、ドングリ科のいろいろの花、それにはまことに奇抜な形のが多く、山の中でめいめい一人で意匠をこらしているのかと思うとおかしい。ヤマナシの白、コブシの白、ウグイスカグラの白、その白がみなちがう。ウツギの変種か、ジクナシという淡紅色の花がいちめんに野にさき、ツツジもそろそろ芽ぐみ、やがて山桜が山にあからむ。山桜がいいピンク色にぽうっと山の中腹に目立つようになると、もう三月春分の日は過ぎる。小学校の染井吉野は二三日間にせっかちに咲きそろい、リンゴ畑も、梨畑も、青白くすでに満開になる。北上川にそって東北本線を下る車窓から旅客の見るリンゴの花のきよらかな美しさは夢のようだ。
 わたくしは昔、復活祭のころ、イタリア、パドワの古い宿舎にとまって、ステンドグラスの窓をあけたら、梨の花が夜目にもほの白かったことを思い出す。「町ふるきパドワに入れば梨の花」。わたくしは卓上の鈴をならして数杯のうまいキャンチをたのしみ味わった。この山の中にもいつかは、あの古都に感じるような文化のなつかしさが生れるだろうか。この山はまず何をおいても二十世紀後半の文化中核をつかもうとすることから始まるだろう。その上でこの山はこの山なりの文化がゆっくり育つだろう。



底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
  
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