黒舞などというのを見た。客も立って踊り、よろけ、中にはへたばってしまうのも出来る。酔いつぶさなければ振舞したことにならないというのであって、わたくしなど幸に酒に弱くもないから、ともかくもふらふらするくらいですむが、いよいよ帰ろうと思って出口に腰かけてゴム長をはいていると、そこへ家人は銚子と盃とを持って追いかけて来て勢こんで又のませる。これを「立ちぶるまい」という。そしておみやげのご馳走を渡される。もう夜になりかけたたんぼ道を歩いていると、今の家からはさかんな大太鼓の音と人間のわめく声とが渓流の音を消すようにひびいてくる。いつまでやっているのか、わたくしはまだ見届けたことがない。ただ岩手の人たちは不思議に人が好くて、こんな大騒ぎをしても、ついぞ乱暴な喧嘩《けんか》をしない。口げんかは相当にやるようだが、関東の人のような手の早いところは八年間に一度も見かけなかった。
旧盆がすむと世の中が急にひっそりする。草木は生長をやめて専ら種子をつくる方にかかりはじめる。畠では、トマト、ナス、インゲンがまっさかり、小豆や大豆も大分大きくなり、土用にまいた大根ももう本根をのばし、白菜、秋キャベツもそろそろ結球をはじめ、ジャガイモも二番花を過ぎて玉を肥らせ、芋の子もしきりに親いものまわりに数を増し、南瓜《カボチャ》、西瓜《すいか》、南部金瓜はもう堂々と愛嬌《あいきょう》のある頭をそろえる。野山に山百合の白い花が点々と目立ち、そこら中に芳香を放つようになると、今度は栗の番になる。
山麓《さんろく》から低い山にかけて東北には栗の木が多い。栗の木は材の堅いくせに育ちが早く、いくら伐《き》ってもいつのまにか又林になる。そして秋にはうまい栗の実をとりきれないほど沢山ならせる。山口部落の奥のわたくしの小屋はその栗林のまんなかにあるので、九月末になると殆と栗責めである。
日中はまだ少し暑いが、朝の空気はむしろ肌さむいほどの清涼さ。そのきれいな空気を吸いに朝の戸口をとび出すと、眼の前の地面に栗いろの栗がころころ落ちている。この落ちて間もない栗の実の色とつやとは実に美しく、清潔な感じで、殊にお尻の白いところがくっきりと白く、まったく生きている。しっとりとした地面の上にこれが散らばっている黒と褐色との調和は高雅である。拾いはじめると、あちらにもこちらにも眼につき、繁ったニラの葉の中や、菊のかげ、ススキ
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