よって色が違うので、この自然の配合が又となく見ごとだ。山口山という三角山の中腹にあるブナやカツラの大木が金色に輝いているのは壮観で、まるで平安朝の仏画を見る思がする。不思議なことに油画ではまだ日本のこの濃度ある秋の色の分厚さを大胆に造型化していないようだ。梅原竜三郎ならやれそうだが。紅葉は木の葉ばかりでなく、足もとの草の葉の一枚一枚を皆貴重品にする。まったく錦《にしき》をふんで歩く外ない。平常つまらないと思っていたあわれな蔓草《つるくさ》までも威厳をもって紅葉する。
 名月は大てい十月初旬だが、うまい月の位置があるもので、ちょうど人間が空を仰ぎ見るのに都合のいい角度で空にあらわれる。わたくしの小屋のあたりから見ると、北上山系の連山、早池峯山《はやちねさん》の南寄りの低い山のあたりからのぼりはじめ、一晩かかって南の空を秋田境の連山までゆるゆるとわたる。塵《ちり》ひとつないきれいな空だから思いきりあかるい。風呂に入れば湯ぶねの中にも月光はさし、野に出ればススキの穂波が銀にきらめく。まったく寝るのが惜しくなって、わたくしはよくその光にぬれて深夜まで人っ子ひとり居ない野や山を歩いたものだ。小屋にかえれば西瓜《すいか》を割ったり、うで粟をむいたり、里芋をたべたりした。そんな晩に一度か二度美しい狐にあったこともある。紅葉がそろそろ散りはじめ、月もだんだんかけてくると、いよいよ茸《きのこ》の季節となる。
 この辺で秋の茸のいちばん早いのはアミノメという茸である。これは傘のうらにひだがなくて、小さな孔《あな》が無数にあり、網の目のようになっている茸であるが、小屋のまわりのハンの木などの根もとの落葉の中にひょっこり見つかる。ひとつ見つかると続いていくつも出てくる。時には列を成して草原に並んでいる。この茸はそのまま汁などにも入れるが、糸でつないで乾しておいてよく料理につかう。大してうまくもないが捨てがたい。松原の近所にはハツタケも出るが、東北にはマツタケのいいのが出ない。数も少いが、香りも味も京都方面のには敵《かな》わない。この辺でいちばん沢山出てうまいのはシメジ類である。キンタケ、ギンタケというのもその一種で、これは見て美しく、たべてうまい。キンタケは黄、ギンタケは白、椎茸《しいたけ》くらいの大きさで、落葉にかくれて一個所に群生している。部落の人はこれを塩漬にしておいて正月の料理用に
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