る」と岡野さんが言われたので、それなら他人と間違えられる事もあるまいと思って稍《やや》安心した事を記憶している。令兄は法学博士岡野啓次郎氏という事であった。岡野昇さんは鉄道線路とシグナルとの設計見学に外遊せられていたのであったが、其頃の大宮駅の線路は同氏の設計らしく、引込線を錆《さ》びさせないように苦心するのだと常に言って居られた。ボストン停車場の線路はいいという事だったので、後日ボストンに行った時その線路の配置を注意して見たが自分にはさっぱり分らなかった。岡野さんは実に頭のいい人で何でもてきぱきと分った。余程以前に一種のブレイン トラストのようなものを組織せられた事があると記憶する。今もむろん健在の事と思うが、私のあの胸像はどうなっているかしらと時として思い出す。

 私は外国に居る間、外に肖像を作らなかった。日本に帰ってから丁度父光雲の還暦の祝があり、門下生の好意によって私がその記念胸像を作ることになった。まるで新帰朝の私の彫刻技術を父の門下生等に試験されるようなものであった。はじめ作って一同の同意を得たものは石膏型になってから急にいやになり、一週間ばかりで二度目の胸像を作り、この
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