の人さへやつて来ず、従つて農人はおのづから勤勉であると同時に悪びれもせず、人間本来の性情を素直に保つてゐる。実際太田村山口の人達は今の世に珍しいほど皆人物が好くてのどかである。その代り強い酸性土壌なのである。そこで私はタンカルを使つた。これは宮沢賢治が在世の頃東北砕石会社の生産品として、彼自身もその売りひろめに奔走した石灰類なのであるが、今日漸くその効用がひろく認められて、今でも、東磐井郡長坂村付近にその後継会社があり、炭酸カルシウム、略してタンカルと呼ばれて、さかんに売り出されてゐる模様である。私はこれを宮沢家の手を経て此の部落に一車分配給してもらひ、部落の農家の間で少しづつ分けたのである。おかげでホウレン草もどうやら育ち、大豆、小豆などもうまくいつた。
昨年はかなりの日照り年で、部落の中では井戸の涸れた家もある程であり、畑地も乾きすぎて大根の二葉が枯れ、小豆も不出来といふ騒ぎであつたが、私の畑は湿け気味の地面なので小豆も茄子も里芋もトマトも甚だよく出来た。小豆は思つたよりも多くとれ、殊に茄子とトマトは成績よく、霜の来るまでさかんに実りつづけた。
ジヤガイモは開墾地と畑地と両方に
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