の像は大変面白い。私はこの像製作の少し前頃から丸刀《がんとう》を使い始めたのではないかと思う。丸鑿《まるのみ》は、製作上の実際から考えると飛鳥《あすか》時代にはなく、飛鳥時代は平鑿ばかり使ったのだろうと思う。飛鳥時代のものは鼻下の人中のような処でも三角に彫ってあり、何処にも丸鑿を使った形跡がない。飛鳥時代の彫刻は、平鑿で削ってゆく清浄さ、その清浄な気持でやったから、丸鑿など思いもよらなかったのだろうと思う。私の考では、丸鑿の使い始めは乾漆像製作の際から起ったのではないかと考える。乾漆の際、箆《へら》でやると谷が丸くなるので、平鑿のような仕事は出来ないが、それが乾漆像に非常に柔い感じを出し得た。それで、木彫の場合にもその柔い感じを出そうとして丸鑿を使い出したものだろうと推測するのである。丸鑿は天平になると使い出し、唐招提寺の諸像あたりから本当に使い始めたように思う。丸鑿というのは丸くしゃくれるから、巧くやるとすっきりしていい代りに、下手をすると却《かえ》っていいところを取って了う。だから乱雑に使うと、取らないでいいところ迄取って了うので、筋ばかりになってうるさく、物が非常に貧弱になって了
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