伽藍洞《がらんどう》で、その中に階段をつけ、途中に色々な飾りものがあって、しょうつか婆が白衣で眼玉が動いていて非常に怖しかったのを覚えている。大仏の眼玉や鼻の孔《あな》から眺めると、品川のお台場の沖を通る舟まで見えるということであった。之が父の設計で余り岩畳に出来ているので、後で毀《こわ》すのに困ったらしく、神田明神のお祭の時にひどい暴風があっても半壊のままだったらしい。父がそんな見世物に手を貸してやっていたことなど、幸田露伴さんの小説の中にも出ているが、然し露伴さんは谷中に来てからの知合で、その頃はもとよりそんな方面の方とはつきあいはなかった。
 歳末になると、父は車を引張ってお酉様《とりさま》の熊手を売りにゆく。いろんな張子を一年かかって拵え、家の中を胡粉《ごふん》の臭いでいっぱいにし、最後に金箔《きんぱく》をつけて荷車に積んで売りに行ったものだ。そんなことが二三年続いたと思うが、つまり仏師の仕事だけでは食って行けなかったのだ。だがそうしている間に、彫刻家として認められる機会がちょいちょい出て来た。父の仕事振りを偶々《たまたま》通りすがりの石川光明さんがよく見ていて、その世話で展覧
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