いいんだ。」と言ったりして、父も悪い気がしないらしく、「守衛さんは若いけれどもいい。」と言っていた。
私は鑑査を受ける展覧会に出品しないという建前であった。自分が鑑査を受けるなら神様に受けるので、人間などの鑑査を受けるべきではないという言分なのである。私が公の展覧会に出品したのは、第一回の聖徳太子奉賛会の展覧会の時が最初であったが、この時は審査はなく、総裁が宮様で父も出品を勧めるので、老人の首と木彫の鯰《なまず》とを出した。
「老人の首」というのは、此処へ乞食のようにして造花を売りに来る爺さんの顔が大変いいので、段々|訊《き》いてみると昔の旗本が落魄《おちぶ》れたのであった。それを暫く来て貰ってモデルになって貰ったが、江戸時代の昔の顔をしているのに牽《ひ》かれた訳だ。「鯰」は従来木彫の方では伝統的なものを何の考もなく拵えていたが、其の頃から私は木彫のああいう風なやり方を始めて、木彫に本来の自覚を持とうとしたのである。その頃鯰の他に魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]《ほうぼう》を拵えたが、「魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]」は武者小路さんたちが中心でやった「大調
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