して、印象によく残ったのであろう。父は以前はよく酒を飲んだが、その当時は殆と飲まなくなっていたので、無理に奨《すす》められ仕方なく時々盃を口にしている様子が子供ながら解るので、私は厭《いや》な気持というのではないが非常に荷厄介なような感じで、早く帰ってくださればいいと思った。随分長時間彫刻のことやいろいろ芸談のようなことを語っているらしいが、父は仏師屋時代の習慣かもしれぬが「御意に御座ります。御意に御座ります。」と言っているので、私はあんなことを言わなければいいのにと思った。
美術学校の岡倉さん時代は、先生というものは一年を通じて生徒の面倒をみることが出来れば他に何をしても構わないという状態で、きちんと学校には来ても来なくてもいいということで、先生は学校で多くお手本となるものを拵えていた。又政府の関係団体などから始終記念像等の註文が来る。先生はその製作に従事していれば、それが教授の一つの実例になって、生徒は見ていていろいろ学ぶ。例えば父が仕事に与った楠公の銅像の時は微かにしか覚えていないけれど、西郷隆盛の銅像の時はよく知っているが、美術学校の中に臨時に小屋を拵えてやっていた。楠公の像
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