母の御蔭である。母は之を非常な貧乏の中でやっていた。竹筒をぶら下げておいて、一銭二銭のお金を入れ、月末に家賃になるだけ入れなければ家賃が払えないような貧乏であった。後に、父が美術学校の先生になってから、やっと生活が当り前に出来るようになったが、それからは学校の先生同志とのつきあいもあり、お弟子もふえたけれど、父は祖父の気性を承《う》けて派手なことが好きだったから、母は決して楽ではなかったらしい。谷中に来てからは、学校の先生になったというので、父を「先生」と呼ぶことにして通し、父が学校から戻ると家中の子供から弟子まで集めて玄関に迎えるようにしたので、初は私達子供は面食《めんくら》って了った。その頃は相当な学校の先生というと歩かないで皆車に乗った。俥屋が「お帰り」と大声で言うと、ずっと前に並んで出迎えて弟子達にも先生というものの位をつけさせたのだ。先ず威儀から始めて、以前の職人を直そうというのであった。あらゆる父の欠点は、母がすべて蔭になって外に現れないように尽し、それは当時はあたり前のような事に思えたが、その当り前のことがなかなかの事だということが、母が亡くなってみるとはっきりと分った。
憲法発布の頃は、もう美術学校は出来ていた。そして竹内久一先生が一番先に彫刻の先生になっていたが、竹内先生が無理遣りに父に先生になれと言って交渉して来た。父は、そんなものはおかしくてなれないと断っていたが、岡倉さんに呼出されて懇々説諭されて漸《ようや》く引受けたらしい。天心先生がある時、不意に遊びに来られた時のことを覚えている。何處かの帰りで、既に半分酔ってやって来られ、家では岡倉さんは何でも酒がなくてはと言うので急に買いに行くやら大騒ぎをした。夏だったから座敷が開放してあるところへ、ガラスのホヤのついている蝋燭立《ろうそくたて》を二つ許《ばか》り並べた真中に床の前に胡坐《あぐら》をかいて、実にいい機嫌で可成夜更けまで何か滔々《とうとう》とやっていた。天心先生はお酒をのむと相当|呂律《ろれつ》が廻らなくなるので何を言ってるのか聞きとれないが、聞きとれてもどういう意味か子供の私には解らなかったろうから、既にその時に記憶はない。細い目を据えて、私の方をジロリジロリ見ている様子が非常に頭に残っている。何か愉快な豪傑みたいな気がして、普通の人とは違った歴史上の人が来て何かやっているような気がして、印象によく残ったのであろう。父は以前はよく酒を飲んだが、その当時は殆と飲まなくなっていたので、無理に奨《すす》められ仕方なく時々盃を口にしている様子が子供ながら解るので、私は厭《いや》な気持というのではないが非常に荷厄介なような感じで、早く帰ってくださればいいと思った。随分長時間彫刻のことやいろいろ芸談のようなことを語っているらしいが、父は仏師屋時代の習慣かもしれぬが「御意に御座ります。御意に御座ります。」と言っているので、私はあんなことを言わなければいいのにと思った。
美術学校の岡倉さん時代は、先生というものは一年を通じて生徒の面倒をみることが出来れば他に何をしても構わないという状態で、きちんと学校には来ても来なくてもいいということで、先生は学校で多くお手本となるものを拵えていた。又政府の関係団体などから始終記念像等の註文が来る。先生はその製作に従事していれば、それが教授の一つの実例になって、生徒は見ていていろいろ学ぶ。例えば父が仕事に与った楠公の銅像の時は微かにしか覚えていないけれど、西郷隆盛の銅像の時はよく知っているが、美術学校の中に臨時に小屋を拵えてやっていた。楠公の像の木型が出来て、それを二重橋の内に持って行って飾りつけ、先ず明治天皇が天覧になった。その後で私共も見たが、父が全責任を負っているというので塩を撒《ま》いて行ったことを覚えている。兜《かぶと》の前についている剣に楔《くさび》を入れることを忘れて、陛下が突然地面にお降りになって、ぐるぐる像の周囲を御廻りになりながら天覧になったが、その時にその剣がぶらぶら揺れるので、それが落ちたら切腹ものだったと言っていたのを記憶している。あの像は木型だけは出来たが、鋳金が技術的に出来なかったので、岡崎雪声さんが外国を廻って鋳金の方法を研究して来られた。あれだけ拵えるのは、あの当時には大変なことだったのだ。又後藤貞行さんなども、あの像に関係したが、ああいう状態に馬がいる時は、ああいう具合に馬は尻尾を上げないと非難する人があって、それを反証する為に後藤さんは自分で馬を駆けさせてグッと引いて急に止った時の姿勢で、馬が尻尾を上げるということを実地に証明したりした。後藤さんは馬の解剖も委《くわ》しいし、馬のことは馬学的によく知っている訳だが、原型の彫刻的気持は解らないものだから、父は困って「脚のところをもう少し曲げ
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