会に出品するようになった。矮鶏《ちゃぼ》などは、その頃拵えたものだ。あの矮鶏は非常によかったと今でも思う。私は五つ位の時だったが、矮鶏の鶏冠《とさか》の円いものなどうまく本当のように出来るものだというようなことを感じて見ていたことを微かに覚えている。それから皇居の御造営があって、皇后様の御部屋の狆《ちん》なども拵えた。
 然しその頃の彫刻家は――彫刻師《ほりものし》と言ったが――今のような世間との交渉は全くなく、鑑賞家から展覧会を見て仕事を頼まれるというようなことは殆となかった。その当時、父のところには、若井兼三郎、外山長蔵、金田兼次郎、三河屋幸三郎などという貿易商が頻々とやって来た。弁慶という独逸《ドイツ》人(父は発音が似ているとそんな風に言って了う。)なども、横浜の商会の手代でちょいちょい来た。父は、食う為には純粋に自分のやりたいものなどなかなか出来ず、マドロスパイプ、インクスタンド、洋傘の柄、ナイフ、時計台、鏡の縁だとか、そういうものの鋳ものにする時の木型を無数に彫った。ひょっとこの口が吸口になって鉢巻のところに煙草をつめこむパイプとか、足長手長を組合せて鏡の縁にするとか、蟹《かに》の鋏《はさみ》をペン置きにするとか、西洋人の気に入りそうな悪どいものだが、そんなものを沢山拵えた。一つが十銭か二十銭位だったから一円貰う為にはそんなものを可成拵えなければならぬわけだ。材はよく樟《くすのき》を使っていた。父の仕事は実に速かったが、そういうものでも投げやりには出来ぬ性だったから、合いはしないのだけれど、食べられぬからそんな仕事をするより外なかった。当時|牙彫《げぼり》がよく横浜に出て、非常に儲かったものだそうだが、父は自分は木彫を習ったのだからと言って遂にやらなかった。又その間に、鋳流しの蝋型《ろうがた》を作る仕事をした。
 その頃、父のところに出入していた人は、そういう貿易商などが主で、石川光明先生なども来られたらしいが、面立をはっきり覚えていない位である。仏師の方は、父のところに来るということは少なかった。父の相弟子で林美雲という人があったが、この人は東雲が亡くなってから父を師匠代りにして西町によく来ていた。和達さんというアンチモニーの匙《さじ》を初めて拵えた半分商人で半分職人の人がよく来て、家では歓迎した。又錺半さんという錺屋《かざりや》の職人がよく出入りしてい
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