を使わせないことは、確に立派な方法である。父はその為、貧乏な中に姉に与える材料を買うのに苦労した。姉は絵を習い出すと、めきめきうまくなって、師匠の言うことは眷々《けんけん》服膺《ふくよう》して、熱心に通った。実に師匠思いで、先生から貰ったものは紙一枚でも大切に蔵《しま》って記念にしていた。絵は今遺っているものなど見ても子供とは思えぬような、なかなか確《しっか》りしたものを描いていて、その頃の展覧会などに出して賞を貰ったりしている。冬の日、紫のお高祖頭巾《こそずきん》を被《かぶ》って、畳紙《たとうがみ》や筆の簾巻《すだれまき》にしたのを持って通ってゆく姿が今でも眼に残っている。観音経を覚えて、上野の暗いところを通る時にはそれを誦《ず》しながら歩くと恐くないと語っていた。非常に親思いでもあって、その頃父は丁度四十二の厄年に当って、学校で梯子《はしご》から落ちて肋骨《ろっこつ》を折って怪我をしたり、シカゴ博覧会に出す猿を彫っていてうまく行かなかったりするのも厄が祟《たた》っていると思い、父の身代りになるようにと不動様に願をかけた。それで、不図病気になって、今で言う肺炎になって亡くなる時も、本当に父の代りに死ぬのだと思って喜んで死んだ。死ぬ八日前まで日記をつけているが、最後の所は震えて点々になって読めない。その日記が二冊残っているが、それを見ると全く大人で、子供とは言えない気がする。写真も残っているが、面ざしがどこか樋口一葉に似ている。
父は姉の死によって衝撃をうけ、非常に落胆して悲しみ、その家に居るのにさえ堪えられなくなった。偶々《たまたま》林町に知り人の持家があって、ここに越して来たのである。秋だったから団子坂には菊人形があり、その人込の中を引越の車をひっぱって来たことを覚えている。
私が父の彫刻の仕事を承《う》けついでやるということは、誰も口に出して言わないうちに決って了っていたことだ。跡とりは父の職を承けつぐことは決っていたことで、別に選択の何のと言うことはなく、自然にやるようになったのである。小学校の七つか八つ位の時、父から切出、丸刀《がんとう》、間透《あいすき》などを三本ばかり貰った。其の時に初めて父は私を彫刻の方へ導いて行くということをはっきり見せた訳だ。私は小刀を貰って彫刻家になったような気がして、何でも拵えてみたかった。丁度谷中に移って小学校を終る頃
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