たらよくはないか。」と話すと、後藤さんは、「馬の其処はそんな風に曲りません。」という。そうすると父は一遍に参って了って、「それじゃあ仕方がないが、何とか曲るようになりませんか、彫刻には勢いがなくてはいけないのだから、何とかして下さい。」などという談判をよくしていた。
 西郷さんの像の方は学校の庭の運動場の所に小屋を拵え、木型を多勢で作った。私は小学校の往還《いきかえ》りに彼処を通るので、始終立寄って見ていた。あの像は、南洲を知っているという顕官が沢山いるので、いろんな人が見に来て皆自分が接した南洲の風貌を主張したらしい。伊藤(博文)さんなどは陸軍大将の服装がいいと言ったが、海軍大臣をしていた樺山さんは、鹿児島に帰って狩をしているところがいい、南洲の真骨頂はそういう所にあるという意見を頑張って曲げないので結局そこに落ちついた。南洲の腰に差してあるのは餌物を捕る罠である。樺山さんが彼処で大きな声で怒鳴りながら指図していたのを覚えている。原型を作る時間は随分かかる。小さいのから二度位に伸ばすのである。サゲフリを下げて木割にし、小さい部分から伸ばしてゆく。そして寄木にして段々に積み上げながら拵えたものだ。山田鬼斎さん、新海(竹太郎)さんなどいろいろな先生が手伝っていた。その製作の工程には、それに準じて様々な仕事がある。削る道具も極く大きいから各種の工夫のあるものが要るし、大工に属する仕事が沢山ある。そういうのを生徒が毎日見ながら覚えることは生徒の為にはなったろうと思う。日蓮の像も竹内先生が矢張学校の中に大きな小屋を建ててその中で拵えたのだ。鋳金を失敗して、日蓮の胴体に大きな穴があいて、私等はそこから出たり入ったりして遊んだ。あれは幾度やってもうまく出来ないので鋳掛けで埋めた。一番よく鋳金が出来たのは楠公の像である。一番|酷《ひど》かったのは、大きいだけに日蓮の像で、桜岡三四郎という人が鋳金を引受けてやったのである。岡倉さんの時代には総て学校が綜合的《そうごうてき》に動いていて、彫刻もやれば大工の仕事も見る、鋳金も見学するという風で生徒の為によかったろうと思う。又学科では彫刻の生徒も日本画等をやった。私等も粉本などを稽古《けいこ》した。大観、春草等の人がいろいろなものを描いた時代を見て覚えている。
 ところが正木さんが校長になってからは、そのようなことはパッタリ止めになって、
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