東方における有事の日、その鉄道は、わが辺境を掩護するため、軍事上決してこれを軽忽に付すべからざるを警告せんと欲す。露骨に表白すれば、その鉄道は露国の国境をして、漸次南方に拡張するがために、極めて須要なるものといわざるべからず。たまたま露清両国の境界をみるに、ただ櫛状の如き山岳もしくは河流をもってするいわゆる机上の理論的境界たるに過ぎずして、確乎たる境界線の設定せられたるものなく、この地方一帯の民族が一定の住所なく、肥沃の地を見れば山嶺をこえて移耕し、土地すでに尽くれば、更に河流を渉りて他に転穡(てんしょく)する、いわゆる[#「いわゆる」は底本では「いわる」]水草をおうて転移しつつあるの現状に徴するも、他日必らず露清の境界に関して、一場の紛擾をかもすべきは予測するに難からず。果してしからば露国が今において、その勢力をこの地方に扶植し、牢として抜くべからざる根柢を培養し、天然的国境を清国領土中の荒漠たる地方に求むるは、ひとり露国のために最大の利益たるのみならず、かくの如き境界にして確定せらるるにいたらば、境界の警備は将来何らの費用と労力とを要せざるを得べし。けだしわが辺境のこと、その基礎すでに確立せば境界線をゴビ地方に推進すること、容易なるべく、かくの如くして始めて枕を高うして安眠するを得べければなり云々。
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これ明らかに露国の野心を暴露して、遺憾なきものにあらずや。もしそれタシケント、トムスク鉄道にして、完成せらるるの暁にいたらば、これすなわちイリの側面を近く脅威せられたるに等しくイリは漸次に露国の侵蝕をこうむるべきは、ほとんど疑いをいれず。いわんやイリ地方は、露領セミレチエンスカヤ州と、イリ河の河盂(かう)によりて連接し露国よりの侵入容易なること、なお黒龍江河盂に沿える満洲に異ならざるにおいてをや。イリの運命あにひとり第二の満洲たらざるを得んや。さらに翻って兵略上より観察せんに、露国もしその首力をイリに進めて新疆を中断し、一支隊をタルバガタイに送りて、西湖を占領し、更に一支隊をザイサン湖方面より出して故城に進め、別働隊をカシガル方向より送り、南北相呼応して新疆を蹂躙(じゅうりん)する有らば、その結果はたして何ぞや。ことに新疆全土の戍兵わずかに六千を越えず、しかも脆弱(ぜいじゃく)恃むにたらず。想うてこれにいたれば、吾人は新疆の運命に関して、喟然長大息せざるを得ず。
かつて聞く英国陸軍大佐マークベル氏、北京を発して西北漠外に出で、親しくカシガル付近山河の形勝を視察し、嘆じていわく、『天山南北路が支那に属するは迷いなり。順当ならざるなり。支那の戍兵一変ことごとく欧洲式の訓練に熟し、かつ鉄道を陝西以西に連絡せしめたる暁にあらざれば、露国に対抗してその侵入を防止するは絶望なりと』試みに地形上より観察すれば、新疆は清国に属するよりは、むしろ露国領、トルキスタン地方に付随するの至当なるは、何人といえども異議をはさむの余地なかるべきのみならず、その人種より論ずるも、言語、宗教よりみるも、また風俗、習慣より察するも、トルキスタン地方に酷似するを認む。加うるに交通の関係上、およびトルキスタン地方との商業的経済上の関係は、近時ますます、接近の度を増進しきたり、地方の住民は、次第に露人と親しみ、かえって清国に対して反抗せんとするの傾向あるより推論しきたれば、新疆が遠からずして露国の膝下に拝跪するにいたるの日あるべきは、燎々(りょうりょう)火を観るよりも明なり、いわんや露国が鋭意その心血を傾注して、その勢力扶植の策を講じつつあるにおいてをや。おしいかな清国いまだ悟らず、晏然(あんぜん)長夜の昏睡中にあること。
さらに転じて西南の境土を望めば、崑崙山脈を隔てて英領印度あり。英国がインドを根拠として、つねに露国の中央アジア経綸に対抗し来れるは、一朝一夕の事にあらず。由来パミール高原は、禍機の伏在するの地、しかも新疆と相接壌するが故に、露国が指を新疆に染めんと欲すれば、英国あに黙してやむべけんや。形勢の変化は、もと意外のあたりより急転し来ることあり。現今いまだ危機の切迫せるものあるを見ずといえども、パミール問題忽然としておこらば、新疆もまたその渦中に投入せらるるなきを保すべからず。清国人たる者よろしくいまだ雨ふらざるに※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]戸(ゆうこ)を綢繆(ちゅうびゅう)するを要するとともに、わが国経世の士、また多大の注意を払わずして可ならんや。
由来南北支那に対して、講究研鑚(けんさん)するの士すくなからざるも、新疆について言及するの人ははなはだまれなるに似たり。これ吾人の切に遺憾とする所にして、識者の一考を煩わさざるを得ず。それ新疆の地たる、わが国と相へだたること数千里の遠きに僻在し、
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