人間の音楽、独唱が芸術として認められた過程にあたかも似る。
 そして、それがもたらす特徴は一枚のタブレットとして独立したる画布の出現、およびそれの一般人への公けの観照の要求である。音楽においての一個人すなわち天才の出現とその個人演奏の出現と同様である。ブルジョアジーとは個人の発見と個人の自己解消[#「個人の発見と個人の自己解消」に傍点]なる二元的アンチノミー的概念を意味する。
 画布がみずから独立すること、それを多くの人々に観照せしめることを要求することの中には同様にすでに一つのアンチノミーを胎《はら》んでいる。このことが展覧会の絵画と、その写真的複製の販売との関係においてあらわれる。絵画が銀粒子の中に浸されることは一つの歴史的矛盾形態を暴露している。――あたかも「株式会社それ自身がすでに資本主義形態としては弁証法的矛盾」を胎《はら》んでいるがように――。
 写真がみずから独立して、活版と親しく腕を組むことで、その独特の領域をもつことはまさに、ガラスの壁よりもぎとられたる一片の視覚を通して、視覚みずからが集団的性格と、組織的機構の中に沈みゆくことを意味する。
 ガラスの壁が現在において特殊の意味において「壁画」の役割りをもつように、レンズはまた他の特殊の意味において現在の壁を飾るところの光画の役割りを演ずる。建築様式にしたがって壁の意味が異なること、それにともなって光画がその意味を転ずることに深い注意を向けねばならない。
 そして光の壁がすでに現在において機械的集団的被担性を乗り越えてきたようにレンズのもつ意味がまた機械的被担性を越えんとする視覚の躍進である。それは個人的天才を脱落したる集団的性格である一九三二年度を代表する一つの標準《スタンダード》である。
 そして最も重要なことは、それがすでにもの[#「もの」に傍点]というよりはむしろザッヘとも称さるべき集団そのものの視覚であり神経であり、一つの行為[#「行為」に傍点]であることである。行為づけるもの[#「行為づけるもの」に傍点]、あるいはものの行為づき[#「あるいはものの行為づき」に傍点]ともいわるべき一つの集団的視覚の一標準形態となったことである。かかる視覚が構成する光の芸術はかくてまったく未来のものでなければならない。
 ただそれが今、利潤形態より脱して、さらに企画的組織機構の要素として発展せんとする未来を展望する時、さらに遠くさらに遠く引きもがれゆく時のゆがみのかなたに、われわれの視覚は深淵のごときものに見入らずにいられない。
[#地付き]*『光画』一九三二年六月号



底本:「中井正一全集 第三巻 現代芸術の空間」美術出版社
   1981(昭和56)年5月25日新装第1刷
初出:「光画」
   1932(昭和7)年6月号
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2008年4月15日作成
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