する努力、そこに芸術のもつ執拗性がある。
 今われわれの時代において、何が被担性[#「被担性」に傍点]として最もめざましくあらわれつつあるか。一つには個人主義が集団的組織の中に沈下していくことによって、個性的天才が集団的|性格《カラクテール》に転じつつある歴史的必然性、二つには自由通商的資本主義が統制企画的組織主義に変容しつつある過程がすなわちそれである。それが良い悪いを論ずる時ではない。時の必然がそれを率直にそこにもたらしつつある。
 機械と集団建築と組合が生活の大衆的単位となりつつある時、壁とは、今、われわれにとってはたして何を意味せんとしつつあるか。
 壁が建築の支柱的機能をもち、窓がそれに対して展望、採光、通風の機能をもっていたことは今やすでに硬質ガラスの出現によってその函数表をあらためることを要求されはじめる。極限にまでひろげられたる函数表においてはすでにすべての壁は窓となりつつある。硬質ガラスは窓であると同時に支柱としての壁をも意味することとなる。建築はすでにガラスへ向ってその視点の方向をむけつつある。
 かつて原始人が巌を透して視覚の自由を主張したように、近代人は石英と鉛の溶融体を透してその視覚の自由を獲得せんと焦慮している。
 近代人がレモネードをすすりながらガラス窓の平面を透して、往来する街路をながめている時、そこに繰りひろげられる光の画布は近代人のもつ一つの「壁画」でなければならない。動く壁画であり、みずから展開するかぎりなき絵巻であり、時の中に決して再び繰り返すことなき走馬燈でもある。集団が集団みずからを顧み覗き込むために彼らはガラスをもったといえるであろう。われわれはあの雨のハラハラ降って小さな音をたてるガラス戸をのみいっているのではない。街角を強く彎曲している巨大な建築素材としてのガラスに呼びかけているのである。巌壁のように立ちあがっているガラスの壁にものをいいかけているのである。それは見る一つの性格である。
 かくて、技術が、その意味における Kunst がみずからの歴史的必然被担性を透して、見る自由とみずからの美を見いだすことの中に、芸術の意味がある。
 封建的宗教的社会機構より自由通商的資本主義が立ちあがり、それに関連して、壁画的絵画の構造より画布的独立をもったことはあたかも音楽が宗教的封建的儀礼に制約されていたものが十六世紀に初めて
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