理論が精密化したらしっぱなしである。西田哲学が判らなくなったら、「判らなければ、ついて来い」である。精密で、大衆に判らないものほど高度のものとなってゆくのである。名誉なのである。学問は大奥へ大奥へと高く深くゆくにつれて、権威と尊厳を加えるのである。知識人の間には、それに向って羨望と嫉妬と競争が起って来るのである。全く戦国時代の一番乗り気分と少しも違わぬのである。
これで田畑を乗りまわされるだけでは、農民にとっては、只迷惑が残るのみである。今や、理論の簡単化と堅牢化、誰にも判って、しかも間違いの起らない類型化が必要となって来た。出版界も、それに留意しなければ、威張ったコケ威しはもはやきかなくなって来た。
文化遺産を万人の手に、雨が降って土を崩しながらしみ透ってゆくようにしみわたってゆかなくてはならない。そして、一度農民達に入って再び盛上って来る理論の再生産が、一九五〇年以後の理論機構とならなくてはならない。
僅か三年の広島県での文化運動の経験ではあるが、二、三人の聴講者の六カ月、七十人の八カ月の苦闘は、燃料がくすぼって眼をあけられないような期間であったが、このくすぼる間の一年が一番大切な[#「一番大切な」は底本では「一大番切な」]耐えるべき時で、それはある瞬間に「ボーッ」と真っ紅に燃えつく時である。それは七百人の夏期大学となり、ついに広島県十三万人の労働文化協会となった。これは知識の表現の適応化が、機械的に、組織的に、大衆の中で流れ作業をした一つの例だと思っている。新協の『雷雨』を県下の五カ所に取ることの出来た労働者の組織は、意識革命進行の具体的な一つの実験であった。六十人の労働者の真中に立って舞台装置を作った深夜の小学校の講堂の情況など、私には一生忘れえない思い出となった。
知事選挙戦に彼等は私を推して現知事と一対一の戦を挑ましめて、僅か三万円の運動費で二十九万二千票を集めてくれた。
聴講者0《ゼロ》の講演会場で、母と二人のみ在ったあの日、どうして、三十万の人々の顔を想像できたであろう。
それは、私にとって現つの奇蹟の連続であったが、しかし辿り辿ってみれば、文化的知識の科学的簡単化と堅牢化が、今正に欠けていること、このことの流れ作業的組織が、飢えに飢えられていることの一つの具体的な実験としてここに記録したいのである。
底本:「論理とその実践――組織論から図書館像へ――」てんびん社
1972(昭和47)年11月20日第1刷発行
1976(昭和51)年3月20日第2刷発行
初出:「朝日評論」
1950(昭和25)年4月
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2006年11月2日作成
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