係官のT刑事に、
「この雪は二万尺の上から、一つ一つ結晶して落ちて來てゐるんです。この一片の雪よりも、私達の世界の方がみじめです」
 と云つた。
 刑事は、いつも、きつい目をしてにらみ据える人間だつたが、その時だけは、だまつて、窓に向つて歩いて行つて、じつと空をしばらく見上げてゐた。
 その事があつてから、人間の愚劣に對する私の驚嘆は、日と共に深くなり、自分も同時に人間全体とすこしも變りなくその愚劣さ、氣障さ、たわいなさ、まことに口にすべからざるものであることに往生したのであつた。
 その頃、中宮寺の觀音のほゝえみが妙に私の頭を往來した。何か自分のこゝろのほとりもこれに似たものがつきまとつてゐる樣であつた。
 何の證據もなくても、或ひはないが故に少し長引いて丸三年間の自由をうばはれて後、戰爭のさ中、やつと、私は執行猶豫の身となつた。
 しかし、私は、あの雪の日以來、大空を壓して降りて來るあの固々たる雪の中の深い秩序が、何時の雪の日にも、私のこゝろによみがへつて來る。
 そして、この大都會の人の世の上に降つてくる雪が、この上もない美しいものとなつて呉れたのである。掌の上でとける雪も、あの二万尺の上から、あの結晶をはこんでくることを思つて、今も、私は涙ぐむのである。



底本:「暮しの手帖 第十五号」暮しの手帖社
   1952(昭和27)年3月1日初刷
   1957(昭和32)年12月25日8版
初出:「暮しの手帖 第十五号」暮しの手帖社
   1952(昭和27)年3月1日初刷
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2007年6月3日作成
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