て一人ぼっちになっていた時で、二時間ばかりしみじみと身の上ばなしを語り合った。
 駅に着くと、もう選挙本部からの連絡は何かの妨害で断ち切られて、ビラは駅の机の上にまるめられてころがっていた。宿をとって、小筆を三本買って来て、それをくくってビラを書いた。演説届もそれからしなければならない始末であった。折から春の山の雪が濃く降って来た。二人の青年の叫びつづけるメガフォンの声はすぐにかき消されて行った。女学校のガランとした十三、四人しかいない空虚な電燈の光、寂として雪を聴くかのような重い外の空気、青年と共に在ったあの広島県の山の夜を、私はいいようもないノスタルジアをもって、今まさに東京の塵炎の中から恋いしく思わずにいられない。
 翌る日は吉舎町、現知事一行は五台の自動車で乗込んでいたのに遭遇した。青年達は凄愴に緊まりはじめた。この山中に入っている日、突然電報が入った。
「タチアイエンゼツアルヒロシマニスグカヘレ」
 今広島に出ては、三郡ばかりを犠牲にしなければならない。しかし本部の予定は絶対である。帰って演説会場に走せつけた。しかしそれは何かの策謀であったのか、相手もいなければ、広告を出していた新聞社も来てはいなかった。私は数人の人に二時間の会心の演説をして、再びスケジュールの山間部に入って行った。或る時は五里の雨の道を走るように可部町に入って、ビラを見て会場を知り、メガフォンを治しながら辿りついたこともあり、二十日市では会場が無断で変っていて豪雨の申をジリジリしながら立ちつくした。本部は本部で米が切れてパンでしのいだ。男世帯なので副食物は徹頭徹尾イカの塩辛であった。かくて、すべては惨タンたる苦しみにみちていた。ところが新聞の誤植で私が八四歳となっていたのを敵は見のがさなかった。山間部で私が行かなかった郡では私を八四歳の老翁だと演説してまわっているし、またそう信じているとの情報を得たのであった。その対策として、私達は五日市の競馬場に突込まなければならないはめに落ちたのである。
 烈風の吹く日であった。
 競馬場には幾万の農民が山間部といわず、海岸部といわず方々から集まっていた。その前に四八歳である正味の私の顔を見せなければならないのである。馬がまさに集合せんとする時、私は競馬場のコースに入ったのである。そしてこの大衆に向って叫ばなくてはならなかった。馬のかわりに、人間が、レース・コースの中にあらわれたのである。そして馬がスタート切るや、馬券表の高台に上って、また民主選挙が何であるかを説かなければならなかった。
 京都から、知己である坂東蓑助氏が競馬場に応援に来てくれて、あの美貌の鼻の先を赤く日に焦がしていたのは、今も尚、胸にしんで来る姿であった。
 あのレース・コースに立った自分を、今思いなおしみて深い感慨がある。実践なるものには、過剰の意識を乗越えて、自分自身を追い抜くもの、自分自身を止めて見ているものを追い抜くものがなくてはならない。批判は補うもののない場合、単なる批判である場合、実践を止めてしまうものである。
 自分のフォームが気にかかっているボートの選手を「岸が気にかかる」といってボートマンは嫌う。フォーム倒れになるからである。気をつけるべき事である。
 くよくよ考えていてどうして自分は馬になれたろう。多くの青年が、芸術家が、知識人が美しくもあの行動の中に巻き込まれて行って、馬のコースの中に立つに至ったことを思いみて、私は感慨にうたれるのである。そして、青年達は僅か三万円余りの費用で、私のために二十九万千九百二十四票をかき集めてくれたのであった。敗れたりとはいえ、人々の予想を美事にくつがえして、四対三の比率で現知事を相手の戦いをたたかったのであった。
 選挙のうわさがぼつぼつ起って来たシーズン、鹿を逐って、自分が馬になったという消夏閑話の一くさりなのである。



底本:「論理とその実践――組織論から図書館像へ――」てんびん社
   1972(昭和47)年11月20日第1刷発行
   1976(昭和51)年3月20日第2刷発行
初出:「青年文化」
   1948(昭和23)年9月
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2007年2月13日作成
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