、審査請求を出すという承諾を戴こうではないか」「異議なし」
かなり長い拍手が消えようとはしなかった。私は頭を垂れてそれをきいていた。
個人の決意の力にのしかかる集団の決議の力は、かくも断層の差をもって押しかかるかと思われるほどであった。また心の隅には戦いが初まって以来、かかる意味の大衆の拍手の嵐の中に、生きていつの日にか面し得ると、乾きに乾いたものがあって、今、それが、スポンジがぬれてゆくようにふくれ上ってゆくものがあった。
私はとうとう黙ってしまった。そして、私もとうとう笑ってしまった。「あはははーっ」と、多くのつぶらな眼も笑ってしまった。彼等は審査請求書を書きあげて、期限の日の夜の十一時四十五分、ちょうど時間一杯というときに県庁にもち込んだのだそうである。
中立で立つのか、社会党から立つのか、もみにもんだ。凡てを推せん団体に委ねている私は案外暢気であった。しかし四囲の事情は引くにひけぬ情勢となって行った。社会党の人々は費用二十万円は最低要るといっていた。私は代表者の会合で、民主陣営から立候補する場合、三万円以上の金で立っては必ず不純な要素が加わって来るから、この限界内で戦う旨を宣した。そして友人に私のこれまでのかいたものを集めて、二冊の本にすること、そしてその費用の前借をはがきで頼んだ。早速本屋から三千円の前渡金が来た。
ついに告示のあった翌日、森戸辰男氏の入党要請の電報を契機に社会党公認候補として知事戦に乗入れることとなったのであった。実践的という言葉はいろいろの意味をもっているが、選挙運動なるものは、その尤《ゆう》なるものである。
私を碌《ろく》に知らない人が、私をほめちぎっている時、私は公衆の前に裸にされて立たされながら、ジーンと、公衆の視線で打たれていなければならない。意識の過剰なる知識人の到底耐え得るものではない。
しかし、実践なるものはそれを強いて、かつその手を決してゆるめるものではない。三原、尾道、福山、府中と、自動車をもつことのできない私はトボトボとスケジュールを辿って行った。広島県の分水嶺である上下《じょうげ》に行く途中の汽車の中に二人の青年があらわれた。その一人が「先生に犠牲になって下さいといった青年が私です。先生があの言葉で立上ったとラジオで言われたのを聞いて、矢もたてもたまらず後を追って来たんです」と言う。ちょうど連絡が切れ
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