になって、ようやく月額一千冊を越えるにいたったので、大いに意を強くしているのである。新聞も、全新聞をのこす意気でもって、やがてマイクロフィルム、すなわち一頁を一コマの映画フィルムに収めて保存することにしている。貴重な書籍は、このマイクロフィルムに取って、拡大器で見るようにして、米国製の撮影機でその活動に入ってきているのである。
こんなに書いていってみると、もはや本を読むということは、浄机明窓で静寂境の楽しみどころではなくして、私にとっては一つの大工場である。その工場の一技師長にしかすぎないのである。物ごとが巨大になりすぎている。しかも、その一つ一つが避けるべからざる必然性をもって、私をその部署に縛りつけ、それに対して、油の少なく引かれた機械の正確性をもって順応せざるをえないのである。この世界での寂けさは、精密機械の工場のもつ静謐である。
しかし、私はようやく、この静寂が、決して、単に不快なものではないことを、みずから確かめつつある。個性の危機を乗り越えて、集団の部署の一員として、みずからの全性格をその中に投じ去ることのもつ命の味は、また世代の一つの戦慄である。
自我を没し去って、全機露呈するときに横溢する働きの中の静寂は、ある意味において快いものがある。もちろん、敵もあれば、心肝も摧く、謀略にも遇う。しかし、そこにこそ湧く爽爽しい緊張もまた捨てがたき命の味もあるというべきであろう。
図書館協会も、本館内にあり、その仕事をも承わっている私は、二倍の意味でこの工場化を感ずるのである。もはや全図書館は、一つ一つベルトを巻いて全動力となるべき図書館組織である。図書館法案が通過するとき、その時まさに大組織体として出発するのである。
公共図書館が一万、学校図書館四万五千の単位で結合するとき、それはすでに購買組織としても巨大である。良書一千の単位の購買を獲得できるのはもはや遠い将来ではない。八千円文庫ですら今八百の単位を戦いとったのである。
希くば、この十二社で、基本図書、教養文庫の一万円文庫の計画を立てて戴き、図書館協会の組織と組み合わせて大いなる威力だと思っている。国会図書館の印刷カードが一枚二円でその文庫に加えうるときも、もはや時期の問題であろう。
中央でこんなに働きつづけている地下室のものがおればこそ、遙かなどこか日当たりのいい南向きの窓で、誰かが、楽しく寂
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