定着するのである。
 更に本格的にこれを完成するのが、世界の観察者としての Subjekt「主観」を確立したカントなのである。主体が天の上にあるのではなくして、地球は回っており、天はばらばらとなり、その全体系を構成するのは、寧ろこの見ている自分自身なのであると云うのである。この自分が世界の根柢となってしまったのである。
 アリストテレスのヒュポケイメノンとは、見事に反対のものとして、コペルニカス的読み違いがここに起って来るのである。
 そして今や、更に世代の断層は「主観」から「主体」に、如何にして読み違えるかを、その主題として来たのである。
 そのもともとの読み違いはヘーゲルのフェノメノロギーで、「真実は実体(Substanz)としてではなく、寧ろ主体(Subjekt)として把握され又表現されたのである」と考えられた時からはじまっている。即ちそれはピストルの弾のように個体として飛んでゆくものでなく、ロケット弾のように常に自分自身が分裂しながら発展するものとして、Subjekt を新しく読み違えた時からはじまったのである。今後もいろいろ議論されることであろうし、読み違えそのものが、又無限の分裂でもって違って来ることだろう。もともと、「下に」「置かれる」、「下に」「投げる」ということが、[#ここから横組み]“sub”“ject”[#ここで横組み終わり]なのだから、無限に読み違えられて、投げ捨てられることが、subject の言葉のもつ運命とも云えないこともない。

   気
 以上のようなことを考えていて私は、フト日本の文化史の上で、自分が自分の意識を自覚したのを確かめる言葉があるだろうかと興味をもちはじめた。
 そして、「気をつかう」と云う言葉が、何時頃から用いられたか、目ぼしい文献で統計を取って見た。今のところ、室町時代の『秋月物語』に一つあるきりで、天正十五年の秀吉の手紙の外は見あたらない。
 それまでは「け」「けしき」「けしきばむ」「けはい」等で、天地の中に拡がっている精霊のようなもの、ぼんやりした喜怒哀楽であって、直接心理の反省の対象とは、なかなかなって来ないのである。
 武士で「気色」となると、人前で威容をいかめしく正して、やや怒気をふくんだ、気張ったものである。
 梶原景季が名馬磨墨を貰って、「気色してこそ引せたれ」等肩をいからせて、鼻息あらく出てゆくところ、目に見えるようだが、これを源氏の「院より御気色あらむを」(澪標)などと云う用法とは見事に異ったものである。
 殊に面白いのは、太平記で「気」なる言葉と、「機」(仏教で法[#「法」に傍点]に対して、受身の自分[#「自分」に傍点]を意味する)なる言葉が、交流してどちらともなく、一つのものとして読み違えられて来るのである。
 例えば、
[#ここから2字下げ]
「気をつめて」(用例一)「機をつめて」(用例三)
「気を直して」(用例一)「機を直して」(用例一)
「気疲れ」(用例一四)「機疲れ」(用例四)
「気を失い」(用例一〇)「機を失い」(用例五)
「気に乗り」(用例六)「機に乗り」(用例五)
「気を呑まれ」(用例四)「機を呑まれ」(用例四)
「敵に気を附け」(用例三)「敵に機を附け」(用例二)
「気を屈し」(用例一〇)「機を屈し」(用例一)
「気の早い」(用例三)「機の早い」(用例一)
「気分」(用例三)「機分」(用例四)(有朋堂文庫本)
[#ここで字下げ終わり]
 これは写本でも幾らかの差があろうが、その用い方は幾分か気の方が心理的であり、機の方が時間の潮時と云った用い方をするのではあるが、ほとんど同一の意味に融合して用いられている。後に西鶴が「機の利いたる」と用い、頼山陽がこの両者を実に混用するのも、遠く淵源はここにあるかと云われる。
 これが、室町になって、軍事的なものから庶民的な用い方になり、『秋月物語』で初めて、「たひのようしん、きつかひはあるまし」の言葉にぶつかるのである。最早はっきりと個人の意識を反省し、その意識が自分であることを疑ってはいない。
 そして、秀吉の北政所への手紙に、「きづかひ候まじく」と出て来るのである。そしてこの庶民から上った秀吉の周辺には、実に多く用いられ、浪華文化では極めて大量に用いられてはいたものであろう。方言の記録さえ残っておれば、未だ未だ、さかのぼってその記録を辿ることが出来るであろう。
 近松の語彙にあっては、「気遣」は、その数に於て、用例二七一と云う余りにも文献的に爆発的となって来るのである。この爆発の背後に如何なる庶民の動きがあったか、和寇のような自由通商に如何なる関係があるか、ほんとうに、無限の言葉の読み違いの宝庫がありそうで、暇があれば、研究して見たいテーマである。
 又中国語としての「気」を日本語の「き」「け」が、
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング