などのものを把握の対象とすることは、単に物語物絵巻などをのみ対象としている日本絵画壇にとっては、あまりにも激しい題材の加重であろう。
 しかしそれが、われわれの見地のもっている一つの不安であることは、われわれの眼をそむくべからざる課題であることを忘れてはならない。
 見る意味のマンネリズム、見る意味の日常性より脱すること、これがまさにあるべき不安の一つである。そしてかのレンズの瞳の見かた、かの「冷たい瞳」のわれわれの瞳への滲透、これは巨大なる見る意志の足跡であり、人間の瞳のはかり知れざる未来の徴しである。
 しかもそれは、一つの新しき性格の出現を意味している。それは精緻、冷厳、鋭利、正確、一言にしていえば「胸のすくような切れた感じ」である。それはこれまでの天才の創造、個性における個別性などの上に見いだすものというには、あまりに非人間的なるファインさである。すなわち換言すれば、それは一つの新しき「見る性格」の出現である。それは、天才の個性ならびに創造の中に見いだしたものより異なれる見かたである。言い換えれば、レンズの見かたである。その瞳は日常の生活、新聞、実験室、刑事室、天文台、あるいは散策の人々のポケットの中にこの機械の見る眼、そのもつ性格は、すべての人間の上により深いより大きい性格として、すべての人の上に、その視点を落している。コルビュジエの「見ざる眼」、バラージュの「見る人間」、ヴェルトフの「キノの眼」も、またその冷たい瞳について語れるにすぎない。
 そして最も大きなことは、それが社会的集団の構成した「瞳」であり、集団の内面をはかるに最もふさわしい瞳であり、あたかも自己みずからその自画像をみずからの眼を通して見まもるように、レンズの眼は集団の内面を見まもるともいえよう。そこに、天才をもその一つの要素とする巨大なる集団構成が、その精緻なる技術をもって芸術の技術[#「技術」に傍点]となし、新しき調和[#「調和」に傍点]の概念を生み出しつつあるのを知るのである。

 存在が存在みずからの深さをはかるにあたって、彼の眼がその深さにしたがって、その遠さをもつこと、そこに人間の太古よりの「問い」の拡延、いわば宗教的情感がある。
 存在が存在より隔てられているその隙虚《すきま》に画布がすべり入るとすれば、今や画布は深淵のごとき深さに沈みつつある。われわれの「問い」、われわれの不安は滲み透るような新鮮さをただよわせている。
 いわばわれわれの存在の疑問記号《フラーゲツアイヘン》である「白き画布」は、今新しき香りを放ちつつ、われわれの前に架けられている。



底本:「中井正一評論集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「中井正一全集 第二巻」美術出版社
   1965(昭和40)年1月発行
初出:「美」
   1930(昭和5)年7月号
入力:文子
校正:鈴木厚司
2006年7月4日作成
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