、自己溶解、これらの墜落を彼はすべてを吸いこむところの過流(Wirbel)という。
それは、もはや死ぬることなき死への埋没である。
われわれは、われわれの画布をいかなる角度において存在の中に挿しいれるかを寂かに憶いみるべきである。涯《はて》もないマンネリズム、意味のない党派心、猜怨と嫉視、繰り返えさるる朋党の瞞《だま》しあい、執拗なる剽窃等々の中に画布が浸さるるかぎりにおいて、すでに白き画布は、再び腐剥することなき腐剥の中に朽ちているはずである。画布は、すでに死膚の白さに彩られているはずである。なぜならそこには、生のただ一つの徴《しる》しである生そのものへの疑問記号《フラーゲツアイヘン》を失っているからである。自分の存在へのまともな肉迫が見失われているからである。
かくて絵画の不安をして、われわれは一朋党と異なることへの不安であらしめてはならない。かつて描かれしものと異なることへの不安であらしめてはならない。単なる取引の上の不安であらしめてはならない。
あるべき不安は、存在に肉迫せざるの嘆きの上にあらねばならない。「存在の意味そのものへの問い」、みずからがみずからの内面にふりかえりての畏れ、自分の背後より襲いかかる悪寒の上にあらねばならない。なぜとも知れざる、みずから、みずからより隔てられたる「隔り」の意味、生ける生々しき空間(〔Ra:umlich−in−Sein〕)の上にあらねばならない。
かかる意味で芸術史とは、永遠なる存在摸索の記録とも考えられるであろう。そしてかのギリシャでは、調和をもって存在の形相として受け入れた。ロマン派はこれに対して、天才の情熱の中にそれを求めた。それは異なる意味をもってながめられたる、一つの「青き花」である。これについて現代、「意味づけられたる時代」としての存在は、いかなる意味でそれを受け入れつつあるのであろうか?
この「問い」はよき意味において、また悪しき意味において、一つの絵画の不安を構成している。私は、その両様の意味で受け取られるところの一つの警告をここに呈出し、また検討してみたいと思う。そは、かのル・コルビュジエのかかげたる一つの命題である。
「みずからを新しく形造るこの時代の生みの苦悩とは、みずからの深奥の中にひそむ調和[#「調和」に傍点]に対する衝動の確認にほかならない。
おお、われらの眼よ、見よ、この調和こ
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング