絵画の不安
中井正一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)露《あら》わな
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)調和[#「調和」に傍点]に対する
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Ra:umlich−in−Sein〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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真に在るものは不安の上にある、というハイデッガーの考えかたには何ものか深いものがある。存在して、しかも存在のさながらの姿より隔てられているという嘆き。存在のふるさとに還りたきのぞみ。それがわれわれの「今」であり、「ここ」であり、「自分」の露《あら》わな現《うつ》つである、と彼はいう。
その意味で、真の自分の姿は永遠なる「問い」の上にある。
言葉の上に、光の上に、音の上に、人は問いを、問いの上にまた問いを重ねる。それは真に在りたい深いねがいである。
われわれが存在の中に在りながら、画布をもってそれを隔て、それに寂《しず》かに立ち向うのは、在るものがそのさながらに向ってなす「問い」の設立である。
存在が存在に向ってなす「問い」の設立、そこに画布の意味がある。自分を自分から画布をもって隔ち、画布をもって押しやること、それは自分が自分に向ってなす親しき問いである。
自分が自分から隔てられているその隙虚《すきま》に、あるいは画布は寂《しず》かに滑り入るともいえよう。
われわれの前にまずある白い画布は、実にいまだ問われざる一つの疑問記号《フラーゲツアイヘン》である。われわれが今ここに在りながらしかも真に在らざる不安、それが画布の寂しき白さである。
白い画布、それは一つの不安である。
人間は問いをもつかぎりにおいて生きている、とハイデッガーはいう。その意味で、それが畏《おそ》れを滲ませているかぎり、画布はいのちの中に涵《ひた》り、いのちの中に濡れているともいえよう。ハイデッガーはいう。この不安こそ、自分が自分の内奥より喚ぶ言葉なき言葉への悪寒のごとき畏れである。自分が自分よりすり抜けること、自分が自分より隔てられていること、それが生ける時間であり、生ける空間であって、見ゆる時空はその固き影であり、射影にしかすぎない。
生ける空間
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