らわしているものはないであろう。
 私は一つの童話を思い起す。強い力の巨人があった。彼は大地に身を置いているかぎり、その力を失わない。彼は時に大地から身を離すと、その力を回復するために、その大なる掌を開き、そのたなごころを、しっかりと大地に着けるという。
 私は力を回復するために、大地にじっと掌を置いている巨人の姿は美しいと思う。
 私たちは常に口を開けば「現実」といっている。しかし、この現実について、私たちが何を知っているだろう。いわゆるサマツ主義といわれるトリビアルな眼前に見ている以外のほんとうの現実の何を知っているといえるだろう。私たちの肉体のどこの部分にでも何を知っているといえるだろう。足だとか手だとか、腹だとかいってみても、腹具合以上の感じ以外に何を知っているといえるだろう。ただ受身の何か、それが動き行動していることを肉体的に感じ見まもっているだけではないか。知っているといえるほどの何かを知っているだろうか。
 足で立ち、手でものをもっている私たち自身を、自分たちは、はっきり知りつくしているだろうか。
 私たちはただ受身で立ったり歩いたりしているだけである。知っているという以上、この手の骨格が、足の骨格から変わってきた何万年かの百年ごとの変革ぐらい知っていてよいのである。だのに何も知らない。ただその長いプロセスの結論として、ステッキを握り、握りこぶしを握って、時には相手をなじっているのである。
 しかし、知るという以上、人間が地上に立ったという、二十万年の歴史、手が自由になった時の、その「自由」の感じを、まともに再び、継承し、意識し、受身でじゅうぶんに知らなくてはならない。
 それからまた例えば、一人で独白をしてみて言語を創出した人間の長い、そして初めての愉快だったにちがいない気分をも、受身で知ってみるべきであろう。
 そして、それらのことから、宇宙に、石ころだろうが、木ぎれであろうが、秩序と法則をもっているらしいことを発見した人間の初めてのたどたどしい驚き。これも思いかえしてみるべきである。
 宇宙に、何も知らない宇宙に、こんな存在がただ一つ、いくら小さくてもただ一つできたこと、人間ができたこと、このことを、この世紀でもやはり驚くべきである。
 たとえ五千年の歴史が、どんな誤りを犯していても、この二十万年の驚くべき現実に比べれば、四十日のすばらしい旅行の
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