ればならない。
ところが映画では、カットとカットの連続の間には「繋辞」「である」「でない」というものがなしにつながって、大衆の中にそのままでホリ込まれるのである。
だから、監督がある予想でつないだカットも、現に館で観衆の拍手がきてみなければ安心はならないのである。
全然反対の結果となることもないとはいえないのである。もし万一、監督が大衆の願いの「志」と「刺」から遊離してきたとなると、その監督のほうが映画界から消えてなくならなくてはならなくなる。……もっともファッショ時代はその反対であろうが。
ここに映画は、別の文法をもっていることを考えざるをえない。
トーキーあるいは字幕で通り一遍の「繋辞」「コプラ」をもってはいる。しかし、もう一つの大きなコプラは、大衆が「である」「でない」と胸三寸でつぶやくそのささやきの中にある。
もし歴史が神の手でつくられるのだったら、神様の独言のようなコプラがひかえている。
歴史のつぶやきがどのカットの継ぎ目にもさしはさまれ、刺し込まれている。どんなつまらないメロドラマの一カットにも、ガリレオが「でも地球はまわる」とつぶやいたような、この歴史のつぶやきと、嘆きの息がはきかけられずにはいない。
文学でハッピーエンドを甘いとし、映画でもハッピーエンドを低級映画のしるしのようにいう伝説が批評界にあるが、しかし、私は、この映画で要求されるハッピーエンドへの傾向は単にそれが利潤機構であるからというだけでなく、このカットが、大衆の願いの鋏でつながれていることに関係があるのではあるまいかと思っている。
継がんとする「志」、断たんとする「刺」うらみが、カットとカットをつぎはりする時、そのエンドは、個人の天才のペーソスでは盛りきれないほど、歴史の憤りが、それを波のように覆いつくすのではあるまいか。
映画は、何にもまして、その時代の人々の「願い」、「悲願」に最も近く構成されるべき、文法を、みずからの構成の中にもっている。
そこで、それは、芸術の始源の形態、すなわち「神話」化する傾きをもっている。
モーゼが、一万の大衆をひきいて、紅海の岸に立った時、あのひろいひろい海に向って、
「この水よ開け」
と、叫んだ、その時、水は徐々に彼の眼前にひらいたのである。そして、一万の大衆は乳が流れ蜜が流れるカナンの地に向って進んでいくのである。
あの「
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