トいるのは、奇妙なことである。もし空気や水や蒸気の弾力性や気圧が種々なる品質を有っているならば、もしそれらは占有され得、かつ各品質は単に相当の分量に存在するに過ぎないならば、それらは、土地と同じく、逐次劣等の品質のものが使用されるに至るにつれて、賃料を与えるであろう。より[#「より」に傍点]劣れる品質のものが用いられるごとに、その製造にそれらが用いられた貨物の価値は、等量の労働の生産力がより[#「より」に傍点]小になるから、騰貴するであろう。人間は額に汗してより[#「より」に傍点]多くをなし、自然はより[#「より」に傍点]少ししかなさないであろう。そして土地は、その力が限られているという点について他に優越しはしなくなるであろう。
 もし土地が地代という形で与える所の剰余生産物が一長所であるならば、年々、新しく造られた機械が旧いものよりも能率がより[#「より」に傍点]小になることが望ましい訳である。けだし、それは疑いもなく、啻にその機械のみならず更に王国内のあらゆる他の機械によって製造される財貨に、より[#「より」に傍点]大なる交換価値を与え、そして最も生産的な機械を所有するすべての者に賃料《レント》が支払われるであろうからである(註)。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
(註)アダム・スミスは曰く、『農業においてもまた自然は人間と共に労働する。そしてその労働は何らの出費を要しないけれども、しかしその生産物は最も高価な労働者の生産物と同様にその価値を有つものである。』自然の労働が支払を受けるのはそれが多くをなすからではなく、それが少ししかしないからである。自然がその賜物を惜しむに比例して、それはその仕事に対してより[#「より」に傍点]大なる価格を要求する。それが寛大に多くを与える場合には、それは常に無償で働く。『農業において使用される労働家畜は、啻に、製造業における労働者の如く、彼ら自身の消費する所に、または彼らを用いる資本に、等しい価値を、その所有者の利潤と共に、再生産するのみならず、更に遥かにより[#「より」に傍点]大なる価値を再生産する。農業者の資本とそのすべての利潤以上に、彼らは規則正しく地主の地代の再生産を齎す。この地代は、その使用を地主が農業者に貸与する所の自然の力の生産物と考えられ得よう。その大小は、かかる力の想定された大いさにより、または土地
前へ 次へ
全346ページ中55ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
リカードウ デイヴィッド の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング